聖書の一節


※聖書の一節を紹介しています。讃美歌が流れますので音量にご注意ください。

原則毎火曜日更新(祝日を除く)

 

※聖書は、「聖書 新改訳2017」(©2017新日本聖書刊行会)を使用しています。)



「人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむがよい。だが、闇の日も多くあることを忘れてはならない。すべて、起こることは空しい。」                                                                                   伝道者の書118

 

 映画「生きる LIVING」を見ました(2022/英国)。主人公が英国紳士(役所勤務)だったので外国の映画になりますが、日本の作品(1952/黒澤明監督)のリメイクだそうです。

 真面目に仕事をしてきた初老の公務員男性は、ある日、自分が末期のがんであることがわかり、それまでの判を押したような生活に変化が訪れます。彼は、同じ職場いる若い女性の明るい性格に惹かれ、彼女と親しくなります。親しくといっても男女のそれではなく、先に妻を失い、同居する息子夫婦との関係がぎくしゃくするなかで得た友情のようなものでした。彼は、一時自暴自棄になってしまいますが、職場に戻って以前とは別人のように仕事に取り組みます。残された時間が短いことを受け入れ、悔いのない時間を過ごすしていきます・・・。

 誰もが幸せで充実した人生を歩みたいと願っていると思います。でも、その幸せとか充実とは具体的にどのようなことをいうのでしょう・・考えさせられる映画でした。

 

 冒頭の聖句は旧約聖書、伝道者の書の一節です。前節には、〝光は心地よく、日を見ることは目に快い“とあります。人生の中で光の中を歩むのは心地よいものです。誰もが強いスポットライトを当てられるわけではありませんけれど、心地よいときを過ごすことはあるでしょう。日の目を見ることだってあるはずです。ずっと楽しい時間が続けば良いですが、そうではないことを大抵の人は知っているのではないでしょうか。

 〝闇の日“は、光を感じることができない辛い日々と言えるでしょう。聖書は、それがたまにある・・ではなく〝多くある“と記しています。

 老年の域になれば、何かしら身体的に不具合が見つかっても不思議ではありません。血圧が高い、便秘気味、食事に偏りがある、運動不足の人は、何かしらの疾患が見つかるリスクは高いのだそうです。いきなり末期がんの宣告は珍しいかも知れませんが、誰もが楽しみを失うような、光を失うような闇の日を迎えるかも知れないのです。というかいつまでも光の中を歩めると思っていると闇が突然襲いかかってパニックになるかも知れません。今あるものはいつまでも続くわけではない・・そう心して来るべき日に備えることができるなら、空しさを最小限に留めることができるでしょう。

 

2024年4月30日(火)更新

 

 

 

 

みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」        ピリピ人への手紙2章13節

 昨日、札幌の羊が丘展望台のクラーク像の台座のところにある「大志の誓い」投函者が累計10万人に達したと報道されていました。本州から旅行で訪れたカップルだそうです。観光地としても有名ですからいまさらクラーク博士像を説明する必要はないと思いますが「Boys be Ambitious!(少年よ大志を抱け)」は道外の方にも良く知られていると思います。私も札幌に住んでいた時がありますのでこの像は何度も見ていました。でも、台座に投函口があることは知りませんでした。「大志の誓い」を書くカードは一枚100円の保管料がかかるそうで札幌観光協会が保存し、後で自分の誓いを読むことができるそうです。そんなサービスがあることも知りませんでした。しかも、この像が建てられたのは48年前の4月16日、同じ日に10万人目の投函って何かすごい・・・とちょっと感動しました。

 大きな志をもってそれに向かって進んでいく・・・素晴らしいことです。若い方なら書きやすいかも知れませんが、年配の方はどうでしょう。どんな事を書くでしょうか。

 冒頭の聖句は、私たちの個人的な展望、夢とは異なり神が私たちの心に働きかけて志を立てるとあります。それは、自分がやりたかったことと重なる事かも知れませんし、全く思いもしなかったことかも知れません。いずれにしても、神に導かれるように、背中を押されるように目指すものが見えてくるということでしょう。

 人は誰でも善いことをしたいと願う思いがあります。人から善人に思われたいと思うところからそれをすれば偽善の香りが漂いますが、そんな人ばかりではないはずです。神は、人の心に働きかけて純粋な心で行動するように導いて下さいます。人は歳を重ねても聖なる志を持つことができます。

2024年4月17日(水)更新*昨日は朝から病院で・・・更新遅れました。

 

 

 

 

 

 

「天を仰ぎ見よ。あなたより、はるかに高い雲をよく見よ。」

                          ヨブ記35章5節

 いくつかの要因が重なって、肉体的にも精神的にも疲れてしまい・・・療養期間を頂きました。今週の日曜日の午前1030分、私は自宅で古い動画(以前の礼拝宣教録画)を見て、讃美歌を歌い一人で礼拝の時間を過ごしました。教会の皆さんと一緒に礼拝できないことが寂しく、改めて礼拝とは何かを考える機会になりました。

 療養の中心は、なるべく膝に負担をかけないように、将来を思い煩わないように(膝の治療、血液の病気の治療)ぼんやりと時間を過ごすことです。気を紛らわせるのにテレビやネットは、役に立ちますが次第に目が疲れたり、頭痛がするようになりましたのでベランダ側のサッシを開けて、外の空気を吸って青空とゆっくり流れる雲を眺めていました。思い通りにならない現実、晴れない不安を抱えている人が慰めを得られるとしたら、何でしょう・・・恐らく人のことばではないでしょう。もちろん、私の場合、痛みや病の原因が特定され、医師の説明や具体的な治療方針に慰められることがあると思います。けれどもそれは、治療に希望が見える場合ではないでしょうか。多くの人が具体的な希望が見えない中で空を見上げたのではないかと思います。

 冒頭の聖句は、深く悩み、苦しむヨブに対して友人エリフが語ったものです。神に深い信頼を寄せていたヨブがあまりの苦しみのゆえに神につぶやく様子をみて、エリフは、神がこの苦しみのときに答えて下さらないからといってヨブに関心を寄せていないはずはない、天を見よ、雲を見よ・・・あなたのはるか上を動いている・・・とヨブに対して上におられる神を見るように促しているようです。

 私は、これまで何度も入院したことがありますが、病院の窓から今日と同じように雲を見上げました。おそらく人生の儚さを寂しく思ったり、家族と会えない寂しさの中で、大切な人を思いながら空を見上げ、また戦場では、いのちの終わりに空を見上げた人もいるでしょう。雲の下には様々な事情を抱えた人たちがいます。私もその一人です。でもはるか高いところにおられる神が右往左往する私を見ていて下さると思うと心が晴れます。

 

2024年4月10日()更新

 

 

 

 

 

「わたしは よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は 死んでも生きるのです。」                                                                                                                                                             ヨハネの福音書11:25

 先週木曜日の夜、私は、救急車で病院に搬送されました。左膝人工関節の手術以来、この二年痛みがとれず痛み止め薬、湿布でなんとかやり過ごしてきたのですが、今年に入ってひどく痛む日が何度かあり、先日とうとう一歩も動けなくなってしまったのです。担架で狭い団地の階段を時間をかけて降ろして頂きました。病院に着くまで、時間にして恐らく20分くらいではないかと思うのですが40分くらいに感じました。その間揺れる度に激痛が走るので歯を食いしばりながらうめき声を上げ続けていました。 病院では、当直医が専門外のドクターだったため整形の先生を呼んで下さり、応急処置として膝に溜まった血を抜いて頂き、腫れが少し引いて少し楽になりました。でもまだ歩ける状態ではなかったのでそのまま入院しました。その後、痛みも大分治まり歩けるようになったので月曜日に退院しました。根本的な治療はまでできませんので、帰宅後自宅で安静にしていますが、またあの状態になったらどうしよう・・・と気が気でありません。思い出すと本当にぞっとします。

 3月31日はイースター、復活節を迎えて教会の礼拝後は、みなで昼食を楽しみました。今回は、パンとシチューを婦人の方々が用意してくれました。私は、まだ入院中でしたのでその様子を妻のスマホを通して見せてもらいました。

 イエス・キリストの十字架による罪の赦しと復活による永遠のいのち・・・を喜び祝うイースターは、教会の最も大切な祭事ともいえます。そのような喜びの中、私は、病院のベッドで膝を冷やしながら、この先どうなるだろうかと心配していました。実は、二年間通院して痛み止め薬しか処方されなかったので、意を決して転院を希望し紹介状を依頼した矢先の救急搬送でした。根本的な治療ができないまま、痛みだけを緩和する方法をまたこれからしばらく続けなければならず失望の中にいたのです。

 入院中殆ど横になっていましたので(トイレも車椅子)、退院後もしばらく体を横にしないと疲れて動けませんでした。頭痛にも悩まされこのコーナーの更新もままなりませんでした。膝以外にもいろいろあって心身共に疲れてしまったようです。実は、火曜日にこの原稿を準備し始めたのですが、途中で疲れて中断していました。

 随分否定的な内容になってしまいましたが神を信じる人も肉体的、精神的、霊的に疲れを覚えることはあります。具体的な弱さ、痛みに向き合うことがあります。その痛み、悩みが深ければ深いほど簡単な回答、慰めを見出すことは困難です。それは聖書でも同様です。でもイエスのことばには、回答と慰めにつながるものがあります。冒頭の聖句もその一つです。私は、今回の激しい痛みの中でも死を意識する程ではありませんでした(事故で大腿骨を骨折したときは悶絶した)。たとえ”死”を意識せざるを得ない状況になったとしても・・・十字架と復活この二つを経験されたイエスのことばが私を慰め、希望を与えて下さると信じています。

2024年4月6日(土)更新

 

 

 

 

 

「するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓いはじめ、『そんな人は知らない』と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。」マタイ2674

 

 キリスト教の暦では、今週は受難週。イエス・キリストが十字架につけられた金曜日を迎えます。クリスマスと異なりイースターは、十字架(処刑)からの復活という一般的には、目を背けたくなるような死と、よみがえりという極めて宗教的なテーマであるがゆえに扱いずらいのではないかと思います。でも、私たちの日常は、明るくポジティブな事だけではありません。むしろ、それまでの信頼、評判を裏切るかのような負の一面を誰もが多少なりとも抱えています。

 冒頭に名前が挙げられたペテロは、イエスの弟子の中でも聖書に何度も名前が挙げられている人です。また他の弟子と同様に数々の奇跡をイエスの傍らで目撃し、ある時は関わった人でした。彼は、どこまでもイエスに従うと心から願い、口に出してもいました。

 一方でイエスは、ご自分の十字架刑が近いことを知って弟子たちにそのことを告げますが、弟子たちは現実的に捉えることができなかったようです。奇蹟を起こし、人を愛し癒したイエスが罪人として捕えられることが想像できなかったようです。しかし、目の前でイエスが捕らえられ下役人等から暴行を受けている様子を見て弟子たちは恐怖を覚えます。「どこまでも付いていく・・何があってもつまずかない!」と言っていた弟子たちは、皆逃げ去りました。

 ペテロは、それでもイエスの逮捕後が気になって様子を見に戻って来ました。ところがその場に、ペテロがイエスの弟子であることを知っている女性がいて「イエスと一緒にいましたね」と声をかけられ慌ててしまいます。イエスの弟子だということが知れたら何をされるか分からないと恐れたのでしょう。それで彼は、イエスを知らない・・ことにしました。その後も二人に同様の声をかけらたのでその都度否定しましたが、次第にその否定は強いくなり、とうとう冒頭の聖句になりました。

 人は〝嘘じゃない“と声高に叫ぶときがあります。それが本当のときもあるし、それが嘘のときもある・・・悲しい現実です。

 イエスは、ペテロがこうなることを知っていました。事前にそのことを告げた時に、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」とペテロに告げていたのです。ペテロは鶏の鳴き声を聞いたときにイエスの言葉を思い出して、その場から離れ激しく泣いたことが聖書に書かれています。ペテロは、嘘をつくつもりは全くありませんでした。むしろイエスの弟子として生き抜くことを願っていました。でも予想外の現実に直面したしたとき自分が願うように行動できませんでした。理想とは真逆の行動をしてしまったのです。

 罪というと犯罪のイメージが大きいかもしれませんが、自分のことばに不誠実なことも罪に値します。犯罪を犯してしまうのはある種の弱さですが、正しく生きようとしても何だかんだと理由をつけてそうできないも弱さです。私たちは、皆弱く、理想はあってもその通り生きられないものです。イエス・キリストはそんな私たちの罪が赦され、神に受けいれられていることを証しするために十字架に掛かりました。ご自分の罪や死と向き合うことは気が進まないかも知れません。でも真摯に向き合うなら、ペテロがそうであったように十字架による赦しとイエスのことばによる慰めと希望を知ることができるでしょう。

2024年3月26日(火)更新

 

 

 

 

 

 

「彼はそれぞれその能力に応じて、一人には5タラント、一人には2タラント、もう一人には1タラントを渡して旅に出かけた。・・・」

                                        マタイの福音書25章15

 昨日、自宅の灯油タンクにポリタンクから灯油を補給しました。団地の灯油タンクは100L程で、残量が減ると用意しておいたポリタンクから自分で補給するようにしています(4個有)。ポリタンク容量は、18Lですが、補給の際、その量だと膝に負担がかかるので半分くらいの量を業者に入れてもらっています。昨日久しぶりに私が補給したのですが、その際、妻が「膝が痛くなるから止めたら、私するから・・」の声が聞こえました。私は「大丈夫!右足に重心かけるから・・」と人工関節の左膝をかばって作業を続けました。ポリタンク二つですから大した時間ではありません。ところが、今朝起きたら、右足の膝も痛いではありませんか・・。まさか、あの作業で・・と思いましたが詳しいことはわかりません。間違いないのは、昨年よりも大分移動(歩行)範囲が狭くなり、できることも大分減ったということです。

 能力を数値化するのに抵抗があるかも知れませんが、私たちは、それぞれ能力に違いがあります。冒頭の聖句は、イエスによる「タラントのたとえ」といわれるものです。神がそれぞれの能力に応じてタラントを渡したことが記されています。タラントは、当時の6千日分の労賃に相当しますので、強引に現在の円に換算すると3千万円くらいになるでしょう。誰もが手にすることができる額ではないと思います。

 イエスは、たとえの中で、主人がしもべたちにこのお金を預けて旅に出たと記されています。タラントは、神が私たちに与えて下さった能力、才能といえるものです。勉強ができて、スポーツも得意で、コミュニケーション能力に優れ、体形、容姿も性格もおまけに顔もいい・・という人がいないわけではないと思います。でも大抵はどれか一つか二つくらいあるものです。せっかく多く与えられても賢く、謙遜に用いることをしないで高慢に陥ってしまえば、自ら不幸を招くことなります。

 たとえの中で主人は、旅から帰ってタラントをどう使ったかを尋ねます。私たちは、それぞれ与えられたものが異なるかもしれませんが、与えられたものを大切なものとして活用し、自分の人生のためにも、神の御栄光のためにも用いることになれば、人生に後悔はないでしょう。

 私の見た目(体形等)は以前とさほど変わっていませんが、今は重い物は持てず、長く歩けず、杖をついています。でも出来ることはまだまだあります。タラントはとても価値あるもので、私にもタラントはあります。それは、私が人より何ができるかできないかということに表れるものではなく、人生の価値や真の幸福といった目に見えずらいものを見るところに最もよく表れてくるものだと感じています。

 

2024年3月19日(火)更新

 

 

 

 

高ぶりがあると、ただ争いが生じるだけ。知恵は勧告を聞く者とともにある。

                              箴言13:10

 東日本大震災から13年の昨日、当時の映像や13年後の家族の様子などを各報道機関が取り上げていました。この災害は、大地震と津波、放射能汚染等複合的な災害として私たちの記憶に刻まれています。

 二年前から続くウクライナの戦禍、昨年より続くイスラエルとパレスチナの出口の見えない関係などは、震災とは原因も過程も異なりますが、大切な人を失う喪失感、やり場のない怒りや悲しみには、通じるものがあるような気がします。イスラエルからのミサイル攻撃に怯え逃げ惑うパレスチナ人が報道陣のインタビューに「何故我々がこんな目に遭わなければならないのか」と答えていました。戦禍に関わらず災害の被害者でも納得のいく回答は得られないでしょう・・・。

 戦争は始めた人が止めることができる・・・といわれます。かつて日本も相手国をあなどり自国を過信して悲惨な戦禍をもたらしたことがありました。責任ある組織の長が高ぶれば、大事な進言が生かされることはないのでしょう。否定的な発言は敵対者とみなして排除するなら、進言そのものがなくなるでしょう。そこにあるのは、自己の正当性とそれを否定する者との絶え間ない争いではないでしょうか。

 冒頭の箴言は、争いと高ぶりの関係に触れています。人の上に立つ者には、知恵が不可欠ですが案外聞く耳をもっていない人が少なくないように思います。勧告は、〝そうした方が身のためだ・(当然そうすべきだ)ということを公的な立場から勧めること”(新明解国語辞典)と辞書にあります。なるほど自分が一番上だと思っているならその人に勧告できる人はいないのかも知れません。主イエスが〝聞く耳のある者は聞きなさい”といわれましたが、箴言が記録された紀元前もイエスが語られた二千年前も、戦争が止まない現在も、体質が変わらない組織も聞く耳をもてないから同じことが繰り返されるのでしょう。自分の上に真の神がおられる・・・そう受け止めることができるなら勧告もまた受け止めることができるでしょう。神は、私たちに〝ことば“をかけて下さいます。そのことばは私たちを知恵あるものとしして整えます。争うのに大した理由は要りませんが、争いを止めるには知恵と聞く耳が不可欠です。頭では分かっていながら、なかなできないというのが私たちの現実なのかも知れません。

 

2024年3月12日(火)

 

 

 

 

「エルサレムを山々が取り囲んでいるように主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。」                                                                                                                                                                                 詩篇1252

 私は義母の通院送迎のために砂川に行くことがあります。私の膝故に最近は病院の玄関まで送って、義母から連絡が来るまで砂川の図書館(火曜休館)のロビーで時間を過ごすことが多いのですが、今日は、何かイベントがあるのか駐車場が一杯で車を停められませんでした。それで少し離れた「遊水地学習館」に行きました。オアシスパークの管理棟と言った方がわかりやすいかもしれません。オアシスパークは、旧石狩川の跡地を利用して造成された水辺のレクリエーションエリアとして知られ、池の周囲を周る歩道は、バードウォッチングや自然散策を楽しむ方が多いそうです。管理棟は一般に開放されており、休憩所としても利用できますので、私も休憩やトイレ等よく利用させて頂きました。エレベーターがあるので今回はじめて三階の展望室に上がってみました。室内には、西の山々の名称と標高が書かれたイラストがあり、また小さな絵が沢山飾ってありました。残念ながらこの日は曇り空で山脈は見えませんでしたが、室内に流れるオルゴールと木製ベンチでとても安らぐ空間でした。それにしても、空知の西側、千メートル級の山々があることは見れば分かりますが、殆ど名前を知らないことに我ながら呆れます。暑寒別岳・・・名前は知っているもののどれがその山であるか指を指せないのです。山歩きができない(膝)私にとって物理的な距離だけでなく心理的な距離もあるのかも知れません。

 冒頭の聖句には、エルサレムを山脈が囲んでいるとあります。パレスチナは、ヨルダン川を挟んで並行するように西側と東側に山脈が南北に連なっています。その中にエルサレムはありますので、囲まれていると記したのでしょう。そのように神がご自分の民を囲んでいるといいます。この次の節にはその理由が記されています。一つは悪の杖が正しい人の割り当て地の上にとどまることがないように。もう一つは、正しい人が不正なことに手を伸ばさないようにするため、とあります。悪の侵入を防ぎ、また、悪への誘惑を絶つためということでしょう。柵ではなく山ですから、越えようと思えば越えられます。実際、人の行き来の制限は難しいですから様々な誘惑、価値観が入り込んできました。

 現在は、ネットで世界とつながる社会になりましたので、情報が簡単に入手できます。でも有益な情報ばかりではありません。むしろ注意しなければならないものが多いように思います。面白可笑しい情報は気になりますが、私たちが刺激的な情報に感化されたとしても誰も責任を取ってくれません。

 主は、山々がいつまでも変わらない姿でそこにあるように、私たちが時代に流されず、教えの風に振り回されないように見守っていてくださいます。

 

2024年3月5日(火)更新

 

 

 

 

 

 

「主よ 今 私は何を待ち望みましょう。私の望みそれはあなたです。」

                          詩篇39篇7節

 ロシアによるウクライナ軍事侵攻から2年が過ぎました。戦争が始まった当初、侵攻理由が希薄に思えたので「あれで戦争が続けられるものなのか‥」と疑問でした。でも・・・・続いています。世界は、私が考えるよりも広くていろいろな人がいることを実感しました。この間、特にウクライナ側に兵士は勿論一般人を含めて多数の死者が生じ、また外国に逃れた難民の数は800万人にのぼるといわれます。その人たちにとって〝いろいろな考えがあるからな‥“で済むはずがありません。一方で私たちがどれだけ願っても停戦のために具体的な何かができるわけではありません。歯がゆさを感じますが当事者でないものの限界なのでしょうか。停戦、終結を願う私たちは、具体的に何を待ち望んだらよいのか考えてしまいます。

 冒頭の聖句は、作者が人生の終わりを意識する中で記されたものです。作者は、神を信じていたので、時には神から罪を取り扱われて自分のうちにある空しい部分を垣間見るときもありました。恐らく私たちは、人生の道のりのなかで誇れるようなこともあれば、責められても仕方ないようなこと、悔い改める必要があることもあると思います。それらをすべて自分で良いように評価したくなりますが、正しい評価は神がなさいます。この詩篇の作者は、最終的な望みは、自分がどう生きたか‥という自己評価ではなく、神が私の人生をどう思って下さるかにあると思ったようです。神は、私たちの心にあるもの、生き方の根底にあるものを知ってくださり評価してくださいます。短い人生でも、波乱万丈な人生でも、晩年がどのようなものであったとしても、神が望みである人は、やがて訪れる〝神の前に立つとき“が楽しみになるでしょう。

 

2024年2月27日()更新

 

 

 

 

「自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえも白くも黒くもできないのですから。」                                                                                                                                      マタイの福音書536

 何かの原因で膝に(人工関節手術後)炎症が生じると、数日間腫れて痛みに悩まされます。そこで痛み止め薬を飲む以外に何か対策はないか・・とネットで情報を探したところ、「砂糖の摂りすぎは、炎症を招く・・」とあったので二週間ほど試してみることにしました。すべての砂糖を断つことは現実的ではありませんので、チョコや飴など砂糖が入ったお菓子を止めることにしました。食事には、砂糖を使用した料理が結構ありますので、お菓子を止めたからといって困ることはありません。

おやつとして柿の種やナッツ類など食べました。習慣でしょうか、10日も経つとやはり甘いものが食べたくなってきました。カカオ70パーセントのチョコを見た時には、〝こんなにカカオが入っているならお菓子というより食品ではないか・・“と思いたくなりました。最近は、金時豆を煮ようかと思っています(小豆豆類はよく自分で作る)。金時豆は、おかずであってお菓子ではありません・・・。でも、どこかごまかしているような後ろめたさがあって、まだためらっています。

 私は神にかけて「砂糖断ち」を誓ったわけではありませんが、当時のユダヤ人は、神にかけて誓うなら絶対守らなければならないが、それ以外なら誓ったことが途中で反故にされたり、うやむやになってしまったとしても、それは責任を問われないと考えたようです。冒頭の聖句は、〝自分の頭”とあるように頭にかけて誓った人がいました。でもイエスは、自分で白髪にも黒髪にもできない頭に向かって誓ったところで、何の意味があるかといいます。誓うというのは、自分より大きな存在に対してするものであり、それが果たされなければ、咎められたり責めを負うからこそ誓いの意味があります。では何故人は誓うのでしょう・・・恐らく、本気なんだ、真剣なんだというアピールなのではないでしょうか。だとすれば、聞かされる人は慣れてしまいます。〝誓う”という一見立派な行為が、逆にその人のことばの不誠実さを表してしまいます。

 普段、誠実に生きているなら「やります。できません。」普通のことばで十分誠意は相手に伝わるものです。

2023年2月20日(火)更新

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(かま)や、鍬(くわ)、三又の矛(ほこ)、斧、突き棒を直すのに、料金は1ピムであった。

                            Ⅰサムエル記13:21

 いつ買ったものなのかよく覚えていないのですが自宅の掃除機が壊れました。充電式で吸い込み口に回転ブラシがついているタイプですが、回転しなくなったのです。私も休みの日などに掃除機をかけますので、ある日、あれ?吸い込み悪いな・・とよく見たら、先端のブラシが回転していません。ただ吸い込みの邪魔をしている状態でした。そもそも高額な商品ではないので、修理に出すより別のものを購入する可能性が高いのですが、それなら壊れても構わない・・と回転ブラシ部分を分解してみました。すると本体からの配線が切断していることがわかりました。可動域の部分でしたから負担が限界に達したのでしょう。家電を分解すると感動することがよくあります。今回も、この僅かな部品の隙間によく二本の線を通したな・・・と驚きました。さすがに切れた線を5mm延長して半田付けして元の状態に戻すことは、私には出来ませんので、配線を一旦外に出して、また戻すという簡単な修理にしました。ですが見た目がとても変です(下部写真参照)。でも、これで以前と同じ様に使えるようになりました。私は一人悦に入っていたのですが、妻は「次はコード式にしようかな・・」と新しい掃除機が欲しかったようでした。そういえばコードレスの割に重い・・と言っていました。「直ったの!」のリアクションがいつもより低かったのもうなずけました。

 さて冒頭の聖句は、旧約聖書の中の一節で、当時農具を修理するのにそれなりの費用がかかったことが記されています。壊れた農具を修理するのは当時鍛冶屋の仕事でしたが、当時のイスラエルは鍛冶屋を営むことが困難な事情がありました。西の勢力であるペリシテが、イスラエル(ヘブル人)が剣や槍(やり)を製造して抵抗したり、攻撃されたりすることを恐れて作らせないよいにしていたからです。それで、修理が必要な時は、ペリシテまで行かなければなりませんでした。農業に従事する人にとってこれは大変な負担です。ペリシテには、大男の種族もいましたので、そう簡単に現状を変えることはできませんでした。

 神は、争いが絶えないこの地に平和を回復するために一人の王を立てます。でもその回復の道も簡単ではありませんでしたし、時間もかかりました。平和とは、剣で血が流れないだけでなく、子どもが子どもらしく遊ぶことができ、農夫をはじめ様々な業種が本来の作業に安心して専念できることではないかと思います。

2024年2月13日(火)更新

 

 「わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」 

                                    マタイの福音書25:36

 立春も過ぎて、暦の上では春を身近に感じる季節になりましたが、道内はもうしばらく寒い日が続きます。私は今、教会の事務室で(牧師室はない)パソコンのキーボードに触れていますが、指先が凍傷になりそうです。室温-4度ですから仕方ありません。あまりの冷えに作業を一時中断しました・・・。いつもはストーブをタイマーセットしているのですが、月曜日はお休みを頂いているので火曜日は教会に来てからスイッチを入れます。年に数回、寒さに耐えれば良いことなのでそれほど苦ではありません。室温が少しずつ上昇して+10度位になると”すごく暖かく感じる”から不思議です。

 冒頭の聖句は、イエスが羊とやぎ選別の中で語られたものです。祝福された羊、御国を受け継ぐものとされた人たちは、弱く小さな者たちが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときには飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸のときには服を着せ・・・と見返りを求めない隠れた善行をしてたと言います。冒頭に〝わたしが・・・”とあるように、最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです(40)と記しています。それらの行為はイエスに対してなされたのだとみなされたのです。

 ウクライナの戦地でも能登半島の被災地でも厳しい冬を着の身着のままで過ごさなければならない人たちがいます。私たちは、直接何かを届けることはできませんが義援金、募金等何かの形で思いを伝えることはできるでしょう。冷える体に一枚の毛布があれば、一杯の暖かいスープがあれば・・自分が受ける側に立つことができれば、そんなに構えず自然に出来るかも知れません。そんな思いで行動することができるなら、たとえ小さな行為であってもとても大きな価値があります。

 

2024年2月6日(火)更新

 

 

 

 

「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」                                                                                                                                        マタイの福音書7章12節

 

 私は子どもの頃、父から〝やられたらやり返せ“と言われました。どんな状況でかけられた言葉か思い出せないのですが、二人の姉の下、末っ子として育った私は、父から見て不甲斐ないところがあったのでしょう。

 ❝やられたらやりかえせ❞は、一般的ではないかと思いますが❝人からされて嫌なことは、自分もしない❞は、恐らく皆さん子ども時代に親から言われ、その後も意識していることではないかと思います。皆がそのとおりしてくれれば良いのですが現実はそうではありません。もしかすると「されて嫌なこと」を他の人にすることでうっぷんを晴らすのか、そもそも「されて嫌なこと」とは何かがわからない人がいるのかも知れません。

 冒頭の聖句は、イエスが語られたものです。人からされて嬉しいこと、人にしてもらいたい事なら容易に思いつくのではないでしょうか。心のこもった言葉や支援、辛いときにはそっと見守る距離感、失敗は責めずに次に期待してほしい・・・総じて言えば、ありのままの私を受け入れてほしい、欲を言えば愛してほしいということになるのではないかと思います。それを他の人にしなさい・・・というのですから、もしできたら何という素晴らしい世界になるでしょうか。でも、現実はそうではありません。わかっていながら・・・できないというところでしょうか。

「これが律法と預言者です。」は、旧約聖書を要約した表現で、イエスが別のところで〝心から神を愛すること〟と〝自分自身のように隣人を愛すること“この二つを大事な戒めとして取り上げたことに共通しています。神の教えは昔から変わっていないということでしょう。

 神は、私たちが互いに愛し合うことを願っている・・・のではなく命じています。私たちにとってこの世界が生きづらいものとなっているなら、自己主張ばかりで愛すべき他者が存在しない人が増えたのかも知れません。もしそうなら孤独な人も増えたことになります。自分と同じように他者を見ることは確かに容易ではありません。そもそも考え方も育った背景も異なるはずです。それでも共通の何かを模索することはできます。まずはそこから始めてみるのが良いでしょう。神は、出来ないことを責めるお方ではなく、遜って前に進もうとする人を応援してくださいます。

 

2024年1月30日()更新

 

 

 

 

 

「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

                     ヨハネの福音書8章32

 

安倍元首相銃撃事件(2022)に端を発して、某宗教団体が注目されるようになりました。親が熱心な信者で子どもが生きづらさを抱えている状況を宗教二世としてメディアが取り上げていました。かつて輸血問題で話題になった宗教団体も含まれていました。私たちには「信教の自由」という権利があり宗教への参加は自由で強制もされないはずです。現状は異なっていても外から意見するのは、余程の事がない限り憚られます。

 あるドキュメンタリー番組で、母親が宗教活動に熱心で子どものバイト代も献金され家は貧しく辛かったと二世は語りました。別の親子は、息子さんが何を言っても聞かない母親でしたが、息子さんの〝うちは幸せじゃないよね〟のことばに、これまで幸せになろうと頑張ってきたのに、そうでない現実を認めざるを得ずお母さんは疑問を感じるようになります。後、脱会に至りました。

 何も信じるものがないより、あったほうが良いと思いますが、どうせなら確かなものを信じたいと思います。でも人は、真実だから信じるというより、信じたものを真理と思うようです。視野が狭くなった中で与えられた機会、関係は特別視しやすいこともあるでしょう。

 冒頭の聖句は、イエスが語られたものです。「真理」に言及するのは哲学か宗教でしょう。辞書は真理を〝誰も否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実〟と説明しています。一方聖書の原語は、真理、真相、本当、実際の意味があります。人の思索探求の産物ではなく、手に触れたり実感できるものだといいます。イエスは「わたしは真理であり・・」と言われました。大胆な発言です。〝真理を知っている〟と宗教を興す人は多くいますが、自分が真理だと言った人はいませんし、言えばいつかぼろが出るからです。

 信仰を持つと束縛されるのでは・・と思う方がいます。真理でないものを真理と思い込むと視野が狭くなり、ますます不自由になります。イエスの十字架と復活の事実は、私たちが様々な束縛から解放されて自由になることを意味します。聖書の別の箇所ではこれを〝たましいの安らぎ〟と記しています。真理とは何か・・学ぶというよりへりくだって心の目で見ることにより見えてくるものかも知れません。真理は私たちの人生を豊かに、また確かなものにするでしょう。

 

2024年1月23日(火)更新

 

 

 

 

「するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、」

                       使徒の働き918

 

  東京上野の美術館に「カラバッジョ特別展」を観に行ったのは、三十代前半の時でした。宗教画に興味を持ち、自分でも描いていましたが、この時初めて自分の背よりも大きな絵の前に立ち、作者の情熱と意図を感じました。それまで本や映像で知っていた世界に、一歩足を踏み入れたような感覚でした。

長女が生まれたとき、初めての育児で疲れていた妻の負担を減らそうと、私は積極的に家事に参加しました。もともと料理は好きな方でしたから苦になりませんでした。ところがあるとき〝子ども見ていてくれない〟と妻。私が台所に立つよりも妻が自分の時間を持つことを望んでいることがわかり、その日を境に子どもへの関わり方が変わりました。それまで、わからなかったこと、見えていなかったものが見えるようになったとき〝目から鱗・・・〟といいます。

 「目から鱗」の出典は、冒頭の聖句になります。サウロは、新約聖書に含まれる手紙を複数書いた伝道者ですが、元々キリスト者を迫害する熱心なユダヤ教徒でした。彼は、十字架につけられたイエスを、神を冒涜する偽救世主と決めつけイエスを信じる人がいれば、家に押し入って男女を問わず引きずり出して容赦なく牢に入れていました。そんな彼に転機が訪れます。

 ある日、いつもように迫害しようと北に向かう道で、突然天からの光に照らされ「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」の声を聞きます。「主よあなたはどなたですか」の問いに対して「わたしは、あなたが迫害しているイエスである・・・」の返答に彼は衝撃を受けてしまいます。その後、サウロは、目を開けていたものの何も見えず、三日間飲食をしませんでした。ショックで何も手に付かなかったのでしょう。その後、神から遣わされた人によって祈られ、サウロは再び見えるようになります。以前とは、ものの見え方が大きく変わりました。

 

 小さな気づきは、日常しばしば起こります。人生を変える大きな転機は、自分からではなく与えられるものです。目が開かれる・・・というではありませんか。

2024年1月16日(火)更新

 

 

 

 

「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。」                マタイの福音書7章2節

 杖を使うようになり、また、安静にしている効果もあるでしょう。膝の痛みが少し緩和され、少しずつ動けるようになってきました。何から何まで妻の助けを受けていましたので、その都度、「ありがとう。助かるよ」というと妻があるとき「私もしてもらったから」と言ったので、照れ臭くなった私は「そうだな、弁当は作るし(毎回でない)、食器の片付けもするし、肩もみもするからな(頭痛対策)・・・」といつものように軽く返すと「自分で言うかな・・・」とあきれ顔の妻、私は、返しを間違え、気まずくなりまりました。

 家族に何かするとしても、それは家族としてできることをしているだけのことなので、誇るようなものではありません。私たちは、してあげる立場から、してもらう側に、その逆になることもあります。”お互い様”は、まず家族の中で体験することなのかも知れません。

 

 冒頭の聖句は、イエスが語られたもので、前節には、「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」とあります。”さばく”とは、人の善悪を判断する裁判官のようにふるまうことです。もちろん、自分の価値観、倫理観に従って判断し行動することは必要なことですが、その判断は必ずしも正しいとは限りません。そもそも自分には甘く、人には厳しいのが私たちの本質ではないでしょうか。これは、家族にも他者との関係の中にも見られるものです。

人をどのように判断するか、その基準の枡(マス)が小さければ、何度も量らなければなりませんし、枡から溢れるものあります。枡が大きければ、一回で大体このくらいと量ることができます。001mmまで測れるノギスなら正確な長さを計測できますが、親指と人差し指で約19㎝と測ることもできます。自分は、おおらかに受け入れて欲しいのに、人は、細かく計測するのは身勝手ではないでしょうか。イエスは、”あなたが量る秤で量られる”と言いました。聖書の別の個所では、”与える者に・・与えられ・・・気前よく量って懐に入れてもらえます”とあって、人を寛容に受け入れ、誠実をもって関わるとき、自分もそう受け入れられ、誠実な関係が与えられるといっているようです。もちろん、いろいろな人がいますから全員とそうなるとは言えませんが、少なくても自分が持っている枡(マス)がどのようなものかがわかれば、他者との関係も変わるのではないでしょうか。

 神は、私たちのあら捜しをするようことはなさらず、受けれて下さいます。人がまるで神であるかのように人を裁くことは、勘違いと愚かさの結果であることがわかります。

2024年1月9日(火)更新

 

 

 

 

 

 

 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」

                                            コリント人への手紙第二418

 

2024年元旦の夜、私は膝の痛みで歩けず、テーブルや食器棚に手を置いてやっと移動していました。20222月に膝の人工関節の手術を受けたのですが、痛みがとれず、その後も不定期に痛み止めを飲んでいました。ところが、調子づいて除雪をしたせいか二三日前から膝がひどく痛み出し、元日の夜には、痛みで歩けなくなってしまったのです。病院は休みです。受診しても恐らく痛み止めの薬が変わるくらいでしょう。以前から、痛みがとれなければ、再手術を考えていましたから、元旦からとても憂鬱でした。水を飲むのも、食器を片付けるのも自分で動けないので全て妻の助けを借りました。翌日、妻に杖を買ってきてもらい少し動けるようになりホッとしましたが、片手しか使えません。これから先のことはわかりませんが、この状況に慣れなければ・・・と気持ちを新たにしました。

冒頭の聖句は、私たちの肉体が衰えていく中で、内なる人(内面の人間性、霊的人格)は、かえって新しくされることを伝えています。

 私は、半月板、前十字靭帯等、膝の手術を何度も受けているので、40代からスポーツは諦めていますが、それでも60半ばで杖を使うようになるとは思いませんでした。出来ていたことが出来なくなる・・・落胆しない人は、いないでしょう。  

 若さが一時的であることは、だれもが認めるものですが、聖書は、見えるものすべてが一時的であるといいます。長くて100年ほどの人生は、労苦も栄光もあるでしょう。でも、総じていえば、悩み、苦難が多いのではないでしょうか。しかも晩年は、例外なく、老い、死と向き合わなければなりません。見えるものは、やがて見えなくなります。私たちは、見えるものを意識せずには、生きられませんが、見えるものだけに目を留めていたのでは、いつか先がなくなるのです。

 聖書が見えないもの・・・というとき、イエスの復活と信仰に関係しています。永遠に続くものに目を留めるとき、朽ちていくものは、それほど気にならなくなります。

  今年一年があなたにとって良い一年となりますように!

2024年1月3日(水)更新

 

 

 

「男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」ルカの福音書2章7節

 

 チャールズ・ディケンズ(1812-1870・英国)の「クリスマス・キャロル」には、強欲な守銭奴スクルージが登場します。三人のクリスマスの霊によってスクルージの過去、現在、未来の様子が映し出され、彼の人生が変わっていくのですが、物語の中で現在のクリスマスの霊が見せる場面が印象的です。大男が部屋の中央にうずたかく山となった肉類、特大のケーキ、オレンジ、リンゴ等々、部屋中甘い香りが満ちる中で大男が長椅子でくつろいでいるのです。今日のクリスマスが豊かと繁栄を楽しむ行事になっているということでしょうか。作者にそのような意図があるのかないのかよくわかりませんが、クリスマスといえば、パーティーや豪華なディナーを想像するなら少し違う視点を持ってよいでしょう。ディケンズは、身なりがみすぼらしく、取り立ててどうということもない家族が満ち足りて和気あいあいとクリスマスの食事を楽しむ様子も描いています。

 田舎で育った私は、子ども時代クリスマスが楽しい行事だった記憶があまりありません。西洋のお祭りという感覚だったのでしょうか。それで寂しい思いをしたことはありませんが、大人になってクリスマスの意味が少しわかるようになって、キリスト教に興味を持つようになりました。

 

 冒頭の聖句は、イエス・キリストが生まれた時の聖書の記述です。当時勅令が出され、自分の町に帰って住民登録をしなければならなりませんでした。ヨセフは、妻マリアが臨月だったにも関わらず、長旅をしました。しかし宿屋がいっぱいで部屋をとることができず、やむを得ず家畜小屋で出産をすることになります。それで生まれた幼子は飼葉桶に寝かせられることになりました。御使いによって預言され、神の聖なるいのちとして生まれた割には、ひっそりしているどころか、不衛生で劣悪な環境といえましょう。でもそこに羊の群れの夜番で野宿をしていた羊飼いたちが駆け付けます。彼らは、神の使いから「救い主誕生」の知らせを聞いて、本当かどうか確かめようと捜して辿りついたのです。羊飼いたちは、飼葉桶の幼子イエスを見てよろこび、神をあがめ、讃美しながら帰ったと聖書にあります。クリスマスの原点は、ここにあります。クリスマスを誰と過ごすか、どんな料理を頂くは、大事なことではありません。最初のクリスマスは、豪華な食事も贈り物もなく、ただ神の救いを喜び味わう素朴なものでした。

 神が救い主を送られたのに、救い主は、世から無視され居場所がありませんでした。その後、イエス暗殺計画が明らかになり、それを避けるために両親は、幼子を抱えて隣国に逃げなければならない時もありました。イエスを育てたヨセフもマリアも裕福ではなく、むしろ貧しい家庭でした。それでも彼らには、神の守りと祝福があったので平和で穏やかな日常がありました。

 華やかなクリスマスが悪いわけではありません。星に導かれて幼子イエスを探し当てた東方の博士たちは、裕福な人たちでした。彼らは、黄金、乳香、没薬を持参して贈り物として献げたと書かれています。

 豊かな人も貧しい人も、それぞれの仕方で救い主の誕生を喜び、お祝いすることが、本当のクリスマスになります。

 

2023年12月26日(火)更新

 

 

 たまたまプブリウスの父が、発熱と下痢で苦しんで床についてた。パウロはその人のところに行って、彼に手を置いて祈り、癒した。   使徒の働き28章8節

 数十年ぶりだと思います。38度を超える発熱で三日ほど寝込みました。喉もヒリヒリ痛み、ピーク時は唾を飲み込むのも辛く、くりゃみや咳をしようものなら、痛くて思わずウヴぁ~と悲鳴めいた声が漏れました。新型コロナウイルスに感染したのです。ワクチンは、三回打っています。それ以後受けていないのは、感染しないと高をくくっていたわけではなく、ワクチン陰謀論を信じたわけでもなく、ただキリがないのではないか・・・といった漠然とした理由からでした。

 私のまわりにも罹った人はいますが、症状が軽く済んだ人と大分つらかった人とやはり個人差があるようです。発熱自体が珍しい私としては、頭痛やひどい倦怠感に加えて心房細動の症状も出てしまい、重い方だったのではないかと思います。ちなみにコロナ感染によって心房細動を発症するリスクは高まり、併合だと死亡のリスクも高まると報告されています。どうりで病院でコロナ陽性が診断された際、基礎疾患があるのでとウィルスの増殖を抑える薬を処方されたわけです(9千円は痛い)。

 治療のために私にできることは、神にあわれみを求めて、頂いた薬を飲んで寝て休むことだけです。

 冒頭の聖句は、伝道者パウロが乗った船が難破し、漂着したマルタ島での出来事です。島の長官プブリウスという名の人の所有地で過ごすことができたパウロは、長官の父親が病んで床についていたことを知って彼を癒してあげました。病の詳しい描写はありませんので、どんな病であるか推測の域をでませんが、よく下痢をする私としては、下痢は辛い、発熱も辛いということだけはわかります。それが癒されたのですからその喜びはどれほどだったでしょう。

 この癒しは、病人から懇願されたのではななく、気が付いたパウロの方から向かって行ったようです。

 今も回復が困難な病は沢山ありますし、癒しを神に祈っている方も大勢いると思います。神は、一人一人の病をご覧になり、ある人のところには、御使いを遣わし、ある人のところには、人を遣わし、ある人のところには、聖霊を遣わしておられるように思います。私も今回、倦怠感と頭痛と不整脈による不快な時間のなかにあって、主の御手の中にいるような感覚を覚えました。病の中でしか気づけないことがあります。健康のありがたさだけでなく、神のあわれみもその一つなのかも知れません。

 ※ちなみに私の回復と妻の感染が絶妙なタイミングでなされ、昨日より世話人役が入れ替わりました。

2023年12月19日(火)更新

 

 

 

 

 

 

"イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」"マタイの福音書 4 4

 

 妻がパン好きなこともあって、朝食はパンが定番です。玉子焼きなどもありますが6枚切り食パン一枚だと物足りなくて、ご飯も少し食べる事があります。たぶん食べ過ぎです。自分でパンを焼くこともあります。子どもたちがいた時は、食パンの型を購入したり、天然酵母パンも作ってみました。膝を悪くしてから生地をこねるのを餅つき機に任せたところ、“美味しくなった”と評判で、手ごね時代の不十分さが明らかになってちょっと複雑な気持です。

 人はパンだけで生きるのではない‥と聞いて、そうだ、副菜、おかずも果物も必要だという人は、さすがにいないと思います。これは食生活の話ではなく、生き方について語ったものです。

 人は、食べ物さえあれば、人として成長できるわけではありません。周囲の人、友人などから信頼、友愛など与えられ受容を学んで人として成長します。これらは物ではないので見えませんが、言葉や態度で知ることが出来ます。

 冒頭の聖句は、イエスが荒野で悪魔の試みを受けたときのものです。断食で空腹だったイエスに悪魔は「あなたが神の子なら、これらの石をパンになるように命じなさい」と言います。あなたは特別な力があるのだから、それくらいしたらどうだということでしょう。食欲は、人の自然な欲求の一つですから、イエスが神の子として行動する上で何か一つでも汚点になるようなことをするように、悪魔は期待したわけです。ところがイエスは、冒頭のように答えました。

 旧約聖書は、荒野を放浪した民に神が天からパンを与えた事を記しています。「神の口から出る・・ことばで生きる。」は、その民に与えた神のことば、諭しの数々を指しています。旧約聖書からの引用なので『』にくくられています。

 実際私たちは、パンがなければ生きることはできません。ですからイエスは、“だけで生きるのではなく”と言われました。確かに勉強だけしていればよいわけではなく、健康だけを求めても、お金だけあっても・・・望むような人生を送ることは難しいものです。

 今日、私たちに対する誘惑は、自分の知識や経験だけに頼るように誘われているのかも知れません。あるいは、逆に何も正解はないのだと。誘惑は、どんな状況でも起こります。誘惑に負けてその後の人生が変わってしまうこともあります。聖書には、誘惑に負けた人も退けた人も出てきます。自分を過信せず、謙遜であることが誘惑に対処する最も良い方法でしょう。神のことばである聖書を開けば、人生を導く金言と出会うでしょう。食べ物があって健康であることを感謝するだけでなく、受け入れられ、愛され、生かされていることに心から感謝が生まれるようになると思います。

 

2023年12月12日(火)更新

 

 

 

 

「傷もなくけがれもない 子羊のようなキリストの、尊い 血によったのです。」

ペテロ1:19

 昨年買ったポインセチアは、その後、剪定しておいたので、今年の春には、芽が出て枝を伸ばしました。今年のクリスマスに講壇を飾ることを夢見て9月下旬から遮光(日照時間を抑制して苞部分を赤くする)しました。一か月以上続けましたが、上部のほんのわずかしか赤くなりませんでした。しかも想定したよりも木が大きくなってしまいました。折角一年かけて育てたので、何とか使いたかったのですが・・・・あきらめて新しいポインセチアを購入しました。※写真の右側が購入したもの違いは一目瞭然!

 この時期、鉢植えのポインセチアの赤は、とても目立ちます。この綺麗な赤色の為にプロの技術と知恵があるのだと改めて思いました。

 ところで、クリスマスの時期になると赤と緑、金色をよく目にしますが、赤が血を表していることは、多くの方がご存じなのではないかと思います。今は、大概のことはネットで調べられるので便利です。クリスマスの赤は、キリストの血を表したものですが、幼子イエスの誕生の喜びと、むち打たれ、十字架刑で流れた血が結びつかない方がいるかも知れません。

 冒頭の聖句は、古い生き方から新しい生き方に変えられたことを説明している中の一節です。イエスの十字架が、神にささげられる傷のない家畜に重ねられてています。傷のない犠牲の動物、以上に聖なる価値あるものとしてイエスが捧げられたから、私たちの罪が赦され、神に受け入れられ、聖なるものとして、私たちは全く新しく生きることができるようになったのだと説明します。 

 クリスマスは、誰にとっても人生、生き方が変わる大きな出来事といっても過言ではありません。

 

 

2023年12月5日(火)更新

 

 

 

 

 

 

「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」

ヘブル人への手紙7章25節 

牧師になる前の話です。大分前になりますが、消防士時代、埼玉県に一つある消防学校救助科で約一か月、救助の知識、技術等を習得する機会を頂きました。いわゆるレスキュー隊員になるための準備です。体力に自信のあった私は、訓練は苦ではなくやりがいのあるものでした。教官の「自分の命を守れない者は、人の命は救えない。」の激励に改めて自己鍛錬の決意をしたものです。火災、事故、災害など、救急隊員としても現場に向かいましたが、危機的状況から間一髪、要救助者を救い出したという記憶はありません。救急車内で心臓マッサージを何度も施しましたが、それで息を吹き返したケースは、他の隊員はありましたが、私はありませんでした。誰かの助けにはなったと思いますが、”救った”と言えるようなことはなかったと思います。ドラマチックなことはそうあるわけではないのかも知れません。

「救い」とは、困難な状況から解放されて、ホッとする状態といえるでしょう。

イエスの救いは、神と人間を隔てていた罪がゆるされて、神との関係が回復することを意味しますが、それは宗教的な救いで自分には関係ないと思うかもしれません。

 イエスは、貧しい大工の子としてマリヤから生まれます。成長したイエスは、貧しい人達、虐げられた人たちに寄り添い、病を癒す奇跡の力によって様々な苦しみからも人々を救いました。十字架で死なれたのは、人の罪が赦されるには、犠牲の血が流されなければならなかったからです(旧訳聖書)。しかも十字架には自ら進んで行かれました。病や差別に苦しみ、死を恐れ、愛されないことに苦しんだ人たちを、イエスの十字架は救ったのです。

 イエスの十字架を我がため と受け入れる人は、神に愛され、受け入れられています。この救いは、完全でその後も変わることがありません。イエスのとりなしが今なおなされているからです。

 

2023年11月28日(火)更新

 

 

 

 

「嘲る者を戒める者は、自分が恥辱を受け、悪しき者を叱る者は、自分が傷を受ける。」                                                                                                                                         箴言9:7

 旧約聖書の箴言は、短いフレーズで端的にまとめられているので覚えやすく、また印象に残るので人気があります。一方で短いがゆえに意味がすぐにわからないこともあります。冒頭の聖句もその一つではないかと思います。

 嘲(あざけ)るとは、バカにして笑ったり、見下して悪口を言ったりすることですから、そういう人を戒める事は、勇気が必要です。貴重なだけでなく必要な人だと思います。でもその人自身が恥辱を受けるとあります。同様に、悪しき者を叱る人も自分が傷を受けるとあります。これは、誰かがいじめられている状況で加害者側に注意をしたり、仲に割って入った時に生じる、矛先が自分に向かうことに似ているかも知れません。戒めること自体は良いことであるにも関わらず、結果として自分が不利益を被ることがあります。

 箴言の次の節には、“嘲る者を叱るな。彼があなたを憎まないために。知恵のある者を叱れ。彼はあなたを愛する。”とあって、叱ったが故に逆恨みされる・・・残念ながらそのようなことがあります。

 イエス・キリストも真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。”と言われました。ものの価値がわからない人には、叱責や警告も意味がない場合があります。

 誠実や謙遜、清さ等を嘲(あざけ)る人がいます。真面目に生きようとすることを笑う人がいます。善意からの忠告に対して、過敏に反応し怒りをぶつけてくるような人がいます。そのような人には、どんなことばも響かないのかも知れません。   

 何を言っても無駄な人、関わりたくない人が私たちにはいるかも知れません。でも、恥辱を受けても、傷つけられても十字架に向かわれたイエスはいます。直接関わることが難しい人も、イエスのことばなら耳を傾けるかも知れません。

 

2023年11月21日(火)更新

 

 

 

 

「また思慮と英知は、あなたをよその女から、ことばの滑らかな見知らぬ女から救い出す。」                     箴言2:16

 知らない人にはついていかない・・・小さな子どもたちには、防犯のためにそう言ってきました。子どもを狙った犯罪が増えるにつれ、こども本人が対処するには限界があることから、周囲の大人たちの協力、関りが不可欠な時代になってきたようです。世間をまだよく知らない子どもは、世の中には、悪い人もいることがまだよくわからないので警戒心があまりありません。では、大人は、知っているから大丈夫かというとそうでもなさそうです。特に男女の関係では・・・。

 冒頭の聖句は、知恵について多く書かれている旧約聖書、「箴言」の中の一節です。“よその女”、“見知らぬ女”への警告のようです。次節以降からは、女がそれまでの連れ合いを捨てて、破滅に向かうことに触れているので、姦淫の誘惑のようにとれます。特に若い男性にとっては、性の誘惑は魅力的に感じると思います。それでもし外見も麗しかったら、ことばも滑らかなこの女性を完全に無視することは難しいかもしれません。ここでは、男性が誘惑を受ける立場ですが、逆の場合もあり得ます。容姿に優れ、ことば滑らかな優しそうな男性だったら・・・心に波が立つかもしれません。でもその窮地から救い出すのは、思慮と英知だといいます。ここでして良いこと悪いことを考える、これまでの事例から自分にとっても危険かも知れないと予測する知性は、知恵と言い換えてもよいでしょう。誰かに教わったり、事例から学んだり、経験から気付いたり・・と少しずつ深められるのが思慮、英知といわれるものでしょう。○○才になったから得られるというものではありません。でも、できれば失敗や挫折を通してでも、なるべく若いうちに少しずつ積み重ね、深めたいものです。そうすれば、少しは知恵ある老人になれそうな気がします。

 

2023年11月14日(更新)

 

 

 

 

神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。」

                               ヨナ書3:10

  謝罪の言葉を述べているのに、心から悪いと思ってはいないように見える・・・表情なのか態度がそう思わせるのかわかりませんが、そのように感じることがあります。「誤解を与えたなら、謝罪したい。」と聞くことがあります。これは“私は、本来謝るようなことはしていないが、あなが勘違いしたようなので、そう思わせたことを謝りたい”というふうに聞こえます。不思議な言い回しだと思います。謝罪のことばはいずれにしても、本当に悪いと思ったことは、態度に表れるのではないかと思います。

 冒頭の聖句は、旧約聖書のヨナ書にあることばです。預言者ヨナは、当時の北の大国アッシリアの首都ニネベに行って、悔い改めを迫ることばを伝えました。当時のニネベは、悪の道を歩んでおり、その悪は、悪臭のように神の前に上ったようです。具体的な悪事は、聖書に記されてはいませんが、3章8節にも“その横暴な行い”とあるので、アッシリアが領土を拡大し、繁栄を謳歌する陰で不法、略奪、暴力、虐げ・・等があったのでしょう。ニネベの人々は、神から悪の道を指摘されたとき、自分の中にあるそれを認め、神のさばきを免れたいと思いました。それが、行動となって現れたのでした。冒頭の聖句に“立ち返った”とあります。表面的な謝罪ではなく、生きる方向性が変わるほどの変化をもたらすのが神のことばの力です。真摯な態度に、神もまた、下すと言われたわざわいを行いませんでした。

 神は、悪に対して厳しい態度をとられるお方です。それは、神が義なるお方で平和を愛するお方だからですが、同時に、悪の道から離れる者をゆるし、受け入れ、喜ばれるお方です。

 自分の罪を人から指摘されたら、面白くなくて反発するかもしれません。けれども神から指摘を受けたなら、素直に受け入れましょう。神もまた、受け入れて下さいます。良き人生への変化は、大きな決断というよりも神の前の素直な決断で訪れるものではないかと思います。

2023年11月7日(火)更新 

 

 

 

 

 

「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカの福音書22:32

 小さな失敗の一つや二つ、誰にでもあると思うのですが、取り返しのつかない大きな失敗となると限られるかも知れません。なかには本人がそれほど深刻に思う程でもない・・・・というのもあると思いますけれど、しばらく落ち込み、後々引きずるのはやはり辛いことです。

 29日(日)、隣町の砂川福音キリスト教会の新しい会堂が完成し、その献堂式が行われました。古くから私たちの教会とは交流があり、砂川教会に牧師がいなかった昨年12月まで私が協力牧師をしていたこともあって、献堂式でのメッセージを依頼されました。

 教会の献堂式は、祝辞や工事関係者への感謝状授与等の他に、讃美、祈り、聖書朗読、聖書からメッセージがあり感謝礼拝の要素が大きいものです。そのメッセージのとき、私は、としかえしのつかない失敗をしてしまいました。普段はしない完全原稿というスタイルで臨んだメッセージの残り2~3分で何がどうなったかわかりませんが、原稿のページを間違えたと思い(A4紙4枚)、原稿を探しているうちに、頭が真っ白になってしまったのです。もはや目の前にある原稿が事前に準備したものと違うと思い込み・・いわゆるパニックです。その後、数分の記憶がなく最後に挨拶したかどうかも覚えていません。同席していた妻によると「沈黙の後・・献堂式おめでとうございます」と何とか挨拶して講壇を降りたけど祈りはなかったと思う・・と言っていました。妻の記憶も曖昧なのは、その場が、何とも言えない衝撃的な雰囲気だったからでしょう。前代未聞の珍事です。大切な献堂式で何という事をしてしまったのか・・と不甲斐なさにその場から消えてしまいたい思いでした。そうなった原因はわかりません。でも“あれだけ準備したメッセージだから、何かあったら読めば大丈夫”という安易な気持ちがあったことは否めません。いずれにしても、祝福で満ちた空間、時間を台無しにしたような出来事に、神と砂川教会、列席者の方々に本当に申し訳なく、恥ずかしさ、不甲斐なさ・・・何とも言えない気持になり、その日以来、心が重くなっています。謝罪で済むようなことではなく、やり直すこともできませんから~その日の夕食は、味を感じることができませんでした。

 重苦しい時間を過ごすうち、主の慰めを期待しましたが願ったようには与えられません。まずは、自分のしたこと、それが故意ではなく過失であったとしても受け入れる時間が必要なようです。私は、恐らくこのことを生涯忘れないでしょう。

 冒頭の聖句は、弟子ペテロがイエスからかけられたことばです。弟子たちは、イエスと寝食を共にするうち自分たちの信仰が立派なものであるかのように錯覚するようになります。奇跡を起こす方と特別近い関係にあるのでそう思ってしまったようです。イエスとともに死をも恐れないと意気込んでいた彼らは、実際は、イエスの逮捕を見るとそこから逃げてしまう情けない弟子なわけですが、それを知った上で冒頭のことばをかけられたのです。

 自分を過信する人は挫折を味わうでしょう。過信が大きい人ほど立ち直るのが難しいのかもしれません。でもどれほど大きいダメージでも立ち直ることはできます。時間が経てば・・などと安易にはいいませんが、イエスは、信仰が無くならないように祈ってくださいました。取り返しできない失敗は私たちには起こります。でもそれで神が見捨てることはありません。

 私は、自分の能力、また加齢によって深刻な失態をさらすことがこれからあるかも知れません。牧師を辞さなければならない日は、そう遠くないのではないかとも思います。でも憐れんでくださる神への信仰は、今より深められるような気がしています。深い失望だからこそ神の深い慰めを頂いてきました。

 今回私の落ち込みの回復には、もう暫く時間はかかりそうですが、私が立ち直ったら、“やらかしてしまった人たち”に同じ目線から“あなたもやりなおせる”と伝え、その人の内に力が溜まるのを見守りたいと思っています。

 

2023年10月31日(火)更新


「耳のある者は聞きなさい」 マタイ13:9

 最近、油絵はあまり描いていません。描くことは好きなのですが、私が亡くなった後、子どもたちに遺品として処分してもらうのに申し訳なさを最近感じるようになったからです。そうはいっても描きたい性分は抑えられず、水彩に聖句を記したフォトスタンド程度の大きさで描いています。昨年、聖書にでてくる”いちじく”を描きたくてネットで画像を検索し著作権に触れないよう留意して描いてみました。個人的には、他の作品よりも気にっていたのですが、あるとき、娘(成人)が帰省した時、描きためたいくつかの作品を見せました。気に入っていたこの額を見せたところ“玉ねぎにしか見えない”と辛辣なことば。私は、娘に「いちじく見たことがないからじゃないか」とその時は、反論しました。でも、しばらく時間がたつと、いわれてみれば、そうかもしれない・・・と思うようになりました。以来ずっと気になっていたので、今月、埼玉の姉に頼んで「いちじく」を送ってもらいました。埼玉の実家には、いちじくの木があったからです。「実だけではなく、できれば葉付きで・・」とお願いしたら、枝ごと送ってくれました。それを見て驚きました。ネットの画像を見て上手に描いたつもりでしたが、実物をみてかなり異なっていることに気付いたのです。完熟したいちじくを何個もほおばりながら(輸送の関係で痛んでいるものがあった)、新しく描きました。ついでに娘が”たまねぎ”といった額の絵も色を重ねて修正しました。断然こちらの方が完熟いちじくに見えます。忌憚のない娘の一言に私が意固地になっていたら、多くの人に内心”玉ねぎみたいだな・・”と思われる水彩聖句額を展示することになったことでしょう。娘よありがとう!。

 冒頭の聖句は、イエスが種まきのたとえの中で語られたものです。神が語られたことばを聞いて、悟るならその人は多くの実を結ぶといわれました。神のことばは、私たちの心に優しくしみ込むものもあれば、私たちの愚かさに光をあてるものもあります。心地よいだけでなく耳に痛いものもあります。でも、そのことばを聞き入れる耳を持つならば、誰でも以前より必ずよい実を見ることになるのです。

下段は修正した水彩聖句額です。参考になれば幸いです。

2023年10月24日(火)更新

 

 

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」

                             マタイ5:9

 休暇を頂いて洞爺湖に行ってきました。小樽から朝里川温泉、国際スキー場を通るルートで紅葉を見ながら定山渓経由で行きました。毎年の事ですが、紅葉の美しさには神々しいものを感じます。そうはいっても、場所によっては枯色、茶色、黄色ばかりのところもあります。赤系の有無で秋の景色の優劣を決めるとすれば、それは私たち人の側の勝手で、自然の木々は何も計っていないと反論するかもしれません。

 洞爺湖は、観光地ですから土曜日ということもあって人が大勢いました。韓国語、中国語がよく聞こえてきました。コロナによる人の移動規制が無くなり往来が元に戻ってきていることを実感しました。季節の移り変わりを楽しみ、温泉で身体を休めていても、気になることがありました。連日、報道されているイスラエルがパレスチナ自治区ガザに地上部隊を送るのではないかという懸念でした。ミサイルと空爆等によってこの10日程の間に両者共に千人を超える死者が出ています。地上戦になれば更に多くの死傷者がでると予測されています。いわゆるパレスチナ、イスラエル問題は、複雑ですが、今回、ニュースの解説を通して以前より理解が深まりました。深まったからこそ、ではどうすれば良いのかが、わかりづらくなった気がしています。

 家族が死ぬことは望まない、平和を願う気持ちは、どちらも同じなのではないかと思います。にも関わらず戦わなければならない程の大義があるということなのでしょうが、やり切れない思いになります。

 冒頭の聖句は、イエスのことばです。平和をつくる・・ということが如何に難しく困難なことかと思う現実があります。平和は、やってくるのではなく、血を流してでもつくらなければならないものであり、そうする価値のあるものであり、真の幸いを理解している者がなしうる行為です。信仰が争いに拍車をかけるものではなく、真の平和に関与するものであって欲しいと心から願います。

 

2023年10月17日(火)更新

 

 

 

 

「わが子よ、蜜を食べよ。それはおいしい。蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。」

                               箴言24:13

 10月8日は、「ようかんの日」だそうです。「いと(10)おいしい よう(8)かん」の語呂合わせになっているそうで、話題になって消費が伸びるといいと思います。

 今では、餡好きをアピールしている私ですが、実は、子どもの頃、羊羹(ようかん)があまり好きではありませんでした。子どもの私には、甘すぎると感じていたのだと思います。今でも、甘い・・とは思いますが、不思議なもので時々食べたくなります。というかお土産等で頂くときがあると、一切れずつ食べているはずなのにあっという間になくなってしまいます。餡ものに限らず、多くの方にとって“甘いもの”は、時に無性に食べたくなるほど美味しいと感じるものではないかと思います。

 冒頭の聖句は、旧約聖書、箴言の一節ですが、あまりにストレートな表現におもしろさを感じます。「甘い蜜は、おいしい・・・あなたにとっても甘いだろ」と。そりゃそうだと返したくなります。疲れた体にしみわたる甘さ・・・がありますので、当時の人たちは、自然の恵みである蜂蜜の甘さを堪能し、おいしさを共感したわけです。でも、箴言は、おいしさの共有だけでなく、次の節に「知恵もあなたのたましいには同じだと知れ。それを見つけるなら、あたなたには将来があり、あなたの望みが絶たれることはない。」と続いています。

 甘いものを食べた時、幸せな気分になるように、知恵は、私たちにとって難行苦行の実のようなものではなく、たましいに活力を与え、未来に目を向け、生きる力になるのだと教えています。箴言は、恐らく今から3千年位前に形成されたのではないかと思われます。数千年前の人も、甘いものに笑顔になり、知恵を見出す人とそうでない人がいて、健康でも病気でも未来に向かって望みを抱いて生きた人がいるわけです。今は、スイーツといわれ、多種多様な甘くおいしいお菓子がありますが、知恵を必要としていることには変わりありません。人は変わらないものだと思います。

2023年10月3日(火)

 

※次回の更新は、17日(火)になります。 

 

 

 

「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。」Ⅱコリント11:30

 私は、もう何十年も履歴書を書いていませんが、履歴書には、趣味、特技といった項目がありました。私にも趣味はありますので、そこは書けるのですが“特技”と問われても特にないのでいつも困っていました。

 就職や転職となると履歴書は、その人を知る大事な情報になりますから重要です。面接の際、自己アピールというかセールスポイントをきちんと伝える必要があると思います。セールスポイントは、長所と言い換えられますが、セール(売る)とポイント(所)という和製英語なのだそうです。商品を売る際に強調できる特徴を表したものであれば、自分を売り込むための長所を伝えることといえるかも知れません。

 残念ながら商品の場合、誇大広告があります。食べてみたら、買ってみたらそれほどでもなかった・・・という事はよくあります。

 人間は、ものではありませんので、その辺、面接する人は心得ていて、額面通りではなく、態度や話し方、印象等からその人を判断しているようです。

 冒頭のことばは、もちろん面接時のものではありません。伝道者パウロが書いた手紙の中の一節です。当時、教会の中に自分が他の人より優れいていると誤解、勘違いしている人がいました。知識や経験を誇る人は、いつの時代、どこにでもいます。パウロは、様々な困難に遭い、身体も健康とは言い難い状態でしたが命がけで神の使命に生きた人です。癒しの奇跡を施したこともありました。誇ろうと思えばいくつか誇れることはありました。でもパウロは、神のあわれみと恵みを体験していたので、何か自分が優れているものがあったから、今に至ったと誇る気にはなれませんでした。もし”誇る必要があるなら”と前置きして”自分の弱さ”のことを誇るといいました。

 貧しいよりは、富んでいた方が良い。病気があるより健康な方が良い。弱いよりは強い方が良い・・・と私たちは考えているのではないでしょうか。確かに裕福であれば、健康であれば、強ければ出来ることがあります。けれども貧しくなければ、病気でなければ、弱くなければわからないことがあります。自分の弱さを認め、受け入れるのは、簡単なことではありません。けれども私たちの弱さを知って、私たちのために十字架に掛かられたイエスを知るなら、その強靭な愛の強さの故に私たちは、励まされ心強くされます。強くもないありのままの自分を受け入れてくれる方がいるからこそ、弱い部分を曝け出すことができるのです。見栄を張り、虚勢を張っている人は決して芯が強い人とはいえません。何者かであるかのように自分を大きく見せる人よりも、自分の弱さに向き合い、受け入れることが出来る人は、他者の弱さに同情できる人です。何者でなくても、人を愛し受け入れることの出来る人こそ、本当は強い人なのです。

 

2023年9月26日(火)更新

 

 

 

 

 

「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。」Ⅱコリント6:10

 

  派手なメイクをしている人が、実は地味で控えめな性格だった・・いかにも真面目そうに見える人が、裏で犯罪に手を染めていた・・・人は見かけによらぬものと言われます。表面から見えるものだけ、表に現れたものだけでは善悪、優劣、賢愚などはわからないものですが、内面が表に出ることも少なくないですから、軽率な判断は慎みたいものです。

 冒頭の聖句は、伝道者パウロがある人たちから持たれた印象に答えています。動詞は複数形ですからパウロ個人というより、神の恵みを頂いて罪から救われ、神のしもべてとして生きている人たちの事といえるでしょう。

 悲しんでいる、貧しい、何も持っていない・・・クリスチャンである私にも当てはまるところはあると思います。落ち込んで表情が暗いときもありますし、恐らく一般的にみれば、私は経済的に豊かな方ではありません。人に誇れる能力も優れた賜物を持っているわけではなく、時代に何かを残せるものも特にありません。

 ですが、神の存在を喜び、十字架の救いをいつも喜んでいます。

 金銭的に貧しい人を支援することは、年に数回の機会(教会の募金活動)しかありませんが、神が用いて下さり必要な方に届けられています。金銭ではなく、福音を届ける機会も与えられています。人の心が豊かされる働きに関わることができるのは、光栄なことです。

 “すべてのものを持っています。”とは、なかなか言えることではないと思いますが、パウロは、神は、私たちに必要なものは必ず与えられると信じていたのでそう言えました。地位、財産、名誉、特技、健康、仕事、仲間・・・あった方がよいと思われるものは確かにあります。けれども心からの喜びのない人生は幸いでしょうか。

他者と関わらない人生が幸せでしょうか。多くのものを持つよりも、本当に価値ある僅かなものを持っている方が幸せな気がします。

 

2023年9月19日(火)更新

 

 

 

 

 

イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。」創世記26:12

 今年の春、家にストックしてあったジャガイモから芽が出ていました。芽は、体によくないそうですから、除いて料理に使っていましたが、二、三か所から芽が延び、あるものは5㎝位延びていたので食用はあきらめました。生ごみとして捨てようかと思ったのですが、とりあえず畑に埋めてみました。その数四つです。その後、ジャガイモは生長し・・・先週、収穫しました(左写真)。廃棄4個からの収穫と考えれば、まずまずの量ではないかと思います。小粒が多いのは、手間も肥料も適当なので仕方ありません。昨日、早速肉じゃがを作りました。若干味が薄かったのですが、味付けも適当なので仕方ありません。でも、新じゃがはおいしかったです。神の恵みに感謝しました。

 冒頭の聖句は、イサクが飢饉を避けて隣国に避難したときのものです。イサクは、そこで種を蒔き、百倍の収穫・・とありますので穀物系の種かも知れません。この豊作の要因は、イサクに対する神の祝福であったことが記されています。恐らくイサクは、種を蒔いたあと何もしなかったわけではないと思います。けれども、日照りや大雨、虫の被害などから守ったのは神でした。人の努力と知恵で賄えるのはごくごく小さな範囲です。

 8月、9月は、台風が多く発生する時期です。最近、気象情報の中で”線状降水帯”とよく聞きます。収穫の秋を迎え、農業被害が心配されます。労働の実であり、また生活の糧でもある大地の収穫が守られるように神に祈ります。災害時のみならず、普段から神のあわれみと祝福に気付いて感謝するものでありたいと思います。

 

2023年9月12日(更新)

 

 

 

 

被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。

                        ローマ人への手紙8章19節

 今月4日、国連の科学者組織が生態系に悪影響を与える侵略的外来種が世界に与える損失は年間4千億ドル(2019/約60兆円)を越えると発表しました。侵略的外来種とは、外来種の中でも、自然や人間の生活に悪影響を及ぼす種をいうのだそうで、その数、3万5千種というから驚きです。損失の9割以上が食料や医療品のような人間生活を支える自然の恵みを失うことによるものだそうです。具体的な名前としてヒアリ、アメリカザリガニ、イタドリ、鯉などが挙げられていました。ヒアリは確か輸送船のコンテナ等についていたとか・・・、アメリカザリガニは、日本の食料対策として食用ガエルが飼育された際の餌として持ち込まれたそうです。鯉はやはり食用でしょうか・・。報告書にも指摘されている事ですが、これら外来種は、人間活動によって持ち込まれました。食料確保のためによかれと思って、貿易が盛んになることの副産物として、禁止されているが高く売れるから、手にしたいから・・・善意であろうと、悪意があろうと、意図しなかったこととしても、結局この状態を作ったのは、私たち人間であるわけです。産業革命以来、環境破壊は進んだといわれます。私たち人間が快適に、より豊かに暮らすことだけを求め続ける限り自然界とのバランスは元に戻ることはないのでしょう。

 冒頭の聖句は、神に創られたこの自然界も身勝手な人間の罪のゆえに苦しみ“神のこどもたちが現れるのを待ち望んでいる”とあります。神の子どもたちとは、イエスの十字架によって罪が赦され、滅びから解放された人の事ですが、このような人々が現れることによって、被造物全体も苦しみから解放され、救われる日を待つことができる、そこに希望があるのだといいます。後の聖句は、“被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります”と続いています。

 地球温暖化、核廃棄物問題・・・100年後にはどうなっているのでしょうか。声を上げることができない動植物に代わり、人間ができることはあります。知恵を出し合い互いに共存の道を探るのはその一つです。でも最も必要なことは、人間が被造物の立場に立って神のあわれみを求めることではないかと思います。これは単なる神頼みではありません。創造者と被造物という視点からでないと見えないものがあります。

 

2023年9月5日(火)更新

 

 

 

 

「ペリシテ人は彼を捕え、その両目をえぐり出した。そして彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせを掛けてつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。」                     士師記16:21

 〇〇戦隊等ヒーローものは特に男の子に人気にがあると思います。多少暴力的なところはありますが、我が物顔の悪い奴(敵)が負けるのは、見ていて気持ちがいいものです。実際には、そうならないことが多いなか、最後に正義は必ず勝ってほしいという願望も含まれているでしょう。

 ヒーローは、多少現実離れしたファンタジー的イメージがありますが、歴史の中で実際、常人とは思えない働きをした人はいます。旧約聖書に出てくるサムソンは、ロバのあごの骨で千人を打ち殺したと記される超人的な力を発揮した人です。この力は、神がサムソンに与えたものですが、彼の聖別された信仰と切り離せないものでした。そんなサムソンは、思いを寄せた女性に裏切られ、力の秘密を敵に知られてしまったものですから、力を失ったサムソンは、簡単に敵の手に落ちてしまいます。今までのうっ憤を晴らすかのように敵は、サムソンに冒頭のような酷い仕打ちを行いました。彼らがサムソンをひと思いに殺さなかったのは、痛めつけてそのみじめな姿を笑い種にしようと思ったからでしょう。サムソンの数々の武勇伝はもはや過去のものになり、今は、ただ痛みに耐えながら惨めな姿を曝け出し、敵の言いなりになるしかありませんでした。でも、自分の愚かさに向き合い、神にひざまずくものを神は放置されません。神は、サムソンの願いを聞き入れ、もう一度力を与えます。サムソンは、その後、自分のいのちをかけて思いを遂げることが出来ました。

 今日、誰が敵でどちらに正義があるのか、すぐにわからないことがあります。ですが、言い分が正しそうに見えても、戦いに勝利したとしても神の前では罪に問われるかもしれません。人の間で英雄とされた人が、後に独裁者で評価が全く逆になることもあります。

 ヒーローとは、他者を圧倒する力を持つもの・・というよりも逆境の中でふてくされず自らを省み、神に望みを託せる人のことかも知れません。もしそうなら・・誰もがなれるかも知れません。

 

2023年8月29日(火)更新

 

 

 

 

「 すると、アンモン人の王はエフタの使者たちに答えた。「イスラエルがエジプトから上って来たとき、アルノン川からヤボク川、それにヨルダン川に至るまでの私の土地を取ったからだ。今、これらの地を穏やかに返しなさい。」                          

                                                士師記11:13

 北海道民にとって北方領土問題は身近です。納沙布岬まで行けば、肉眼で見える歯舞群島との距離の近さに誰もが驚くことでしょう。日本と韓国の間にある竹島も、韓国側の行動は日本にとって挑発的に感じます。台湾の北東に位置する尖閣諸島は、中国から近いこともあって中国側の船舶が頻繁に航行していることが報道され緊張が高まります。領土問題は、双方が真実な歴史的経緯を真摯に受け止めれば解決するような気がするのですが、自国に都合のよい解釈をしているうちは、難しいのでしょう。

 冒頭の聖句は、イスラエルの東に位置するアンモン人がイスラエルに「取った土地を穏やかに返すよう」に要求しています。これに対してイスラエル側は、奪ったものというより攻撃されて戦争になり、戦勝の権利として得た土地、しかも当時は、アンモン人の領地が含まれていたとはいえ、実際にはアモリ人と戦ったものであるとの歴史的経緯を説明するのですが・・・埒があきませんでした。それで結局戦争になってしまいます。旧約聖書時代と現代の領土問題は同じではありませんが、歴史的事実から目をそらし被害者意識にとらわれると物事を客観的に見ることが難しくなってしまうのかも知れません。

 この土地は、誰のものか・・・その国の法律が出来る前は判断が難しい場合もあるでしょう。そういえば人類が月面に足跡を残して以来、やがて月でも領土権を争う時が来るかも知れないと聞いたことがあります。時代を太古の昔まで遡れば、土地は誰のものでもなく神のものといえます。権利を与えられている人類が神の前に少しでも謙虚になることができれば、領土問題は違う側面が見えてくると思うのですが・・・・。

 

2023年8月22日(日)更新

 

 

 

 

この人たちは、あなたがたの愛餐のしみです。恐れる心もなく一緒に食事をしますが、自分を養っているだけです。彼らは、風に吹き流される雨無し雲、枯れに枯れて根こそぎにされた、実りなき秋の木、」       ユダの手紙1章12節

 先週は、日中30度を超える日が多く、しかも蒸し暑かったのでまいりました。教会の事務室は、冷房がないので室温は、34度まで上がります。扇風機と氷水を飲みながらなんとかやり過ごしました。昼食は、近くの自宅に戻って自分で用意しますが、ここ数日、そうめんか豆腐がメインでした。トマトやアイスも食べるので、お腹は満たされますが、メニューのバランスが悪い自覚はあります。自宅にも冷房はありませんが、比較的風が通るので過ごしやすいです。今日の気温は30度でしたが既に朝夕涼しくなって来ました。もう少し経つと秋の気配を本格的に感じることでしょう。

 新約聖書に「秋」が出てくるのは、ここくらいです。でも冒頭の聖句にあるように本来、実りの秋なのに、実らない木、しかも枯れに枯れて根こそぎにされた木とあります。腐って枯れて、風で倒れた木のようです。このような木が何か実をつけることはありません。でもこれは、聖句にあるように、ある人たちのことを指していました。冒頭の聖句の前後をみると、この人たちは“ぶつぶつ不満を並べる者たちで、自らの欲望のままに生き、大げさなことを語り、利益のために人にへつらう”とあります。また、“夢想にふけって、肉体を汚し、権威を認めず、栄光ある者たちをののしっている”ともあります。これでは、雨(恵みの)を降らせるわけでもない、ただ風に流されるだけの雲・・・と同様に何かが残ることはないでしょう。

 神を恐れる心を持つと人は少し謙遜になれます。それでも欲に負けることはあると思いますが、結果が予測できる欲望のままに生きるようなことは望まないでしょう。自分と同じように他者を愛することが容易にできるとは思いませんが、神が望んでおられるならば・・と意識はするようになります。そのような人は、時間がかかっても実を実らせるものです。大きな木にならずとも、大きな実をつけなくても、とにかく実がなるなら将来が楽しみになります。

 

2023年8月15日(火)更新

 

 

 

 

「不正を喜ばずに、真理を喜びます。」

                         Ⅰコリント13:6

ここをちょっとごまかせば、なかったことにできれば・・・利益が増える、株が上がる、罪をうやむやにできるなら、それは大きな誘惑になるでしょう。不正とは、正しくないことですから、様々な分野で不正は起こりやすく、また実際に起こっています。データの改ざん、捏造、隠蔽、産地偽装・・いくつかの製品、組織を思い出します。”とにかく自分の利益”が優先となったとき、不正への垣根がぐんと下がってしまいます。他人ごととは思えません。ただ、人は、積極的に不正をする人と、良心の呵責を覚えながらも関わざるを得ない人がいると思います。後者のような人が、不正を是正する機会を作ることができるのかも知れません。

 冒頭の聖句は、新約聖書の「愛」について書かれた箇所です。農産物であれ工業品であれ、妥当な価格で販売されなければ生産者や消費者を苦しめます。それは、生産者、消費者に対して失礼なことであり、愛のない行為です。

 愛は、”不正をゆるさない”ではなく、”喜ばない”とあります。他者が不正をしないように見張るのではなく、自分がしないように働きかけ、自問する原動力になるのが愛の力です。人はみな罪人ですが、自分を大切に思うのと同様に他者をも大切にしたいと思う気持ちを、いくらか持っています。それさえ失われるとき、不正が不正と思えなくなるのでしょう。

 真理とは何か問われたら難しい議論になるかもしれません。ここでは、不正に対するものと考えれば、誰もが正しいと認めることといえます。冒頭の聖句が愛を説明している箇所だと先に記しましたが、愛することは、誰もが求めるものであり、他者への正しい態度といえますが、実際、愛するとなると・・いろいろ迷い、悩むものだと思います。冒頭の聖句に、二つの”喜ぶ”(動詞)が出ていますが、この二つは違う言葉です。後者の”喜ぶ”は、「いっしょに喜ぶ」の意味があります。何が真理かぼんやりしていても、愛することに自信がなくても、神がいっしょに喜んでくださることを探していけば、その人は、やがて神の喜びを感じられるようになり、自身の人生に喜びを見出すことでしょう。

2023年8月8日(火)更新

 

 

 

 

 

 

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」Ⅰコリント13:4

 新聞の読者投稿欄に次のようなものが載っていました。85才の〇〇さんは、所用があって久しぶりに混雑する時間帯に電車に乗りました。〇〇さんは、懸命に立っていましたが次第に気分が悪くなってしまいます。そこで優先席に座っている若い男性に理由を伝えて席を譲ってくれるようにお願いしました。すると「俺も体調が悪いんだ」といって目をつぶったそうです。すると隣に座る30代くらいの女性が「はい」と言って立ってくれました。〇〇さんは会釈して座ると彼女のリックには、赤ちゃんマークのバッジが・・・彼女は妊婦さんでした。慌てて立って謝ると、「大丈夫ですよ」と応じられたそうです。○○さんは、“高齢になって人の厚意を受ける機会が多くなり、最初は謙虚な気持ちで受けていたのに、いつしか当たり前のように思い、人の事情を気にせず自己中心になっていた、この度、妊婦さんにも迷惑をかけたと反省します”と結んでいました。

 〇〇さんが、気付いて謝った気持ちはわかりますが、反省するようなことは特にないと思います。むしろ“若者よどうした・・”と思いました。でも後から、その若者が本当に体調が悪かったのかも知れないので安易に非難すべきではないと気付きました。実は、私も電車に乗った時、膝が痛いので優先席に座ることがありますが、“この人ずるいな”と思われてやしないかと気にしています(高齢者等、自分より大変そうな人が来たら立つ)。人は、見た目ではわからいことがありますから。

 この妊婦さんのお腹は、まだ目立つものではなかったようです。立ち上がってくれた妊婦さんの親切は、小さなものかも知れません。でも近くにいた方々は、彼女に感謝とエールを送ったことと思います。

 寛容、親切は、私たちに必要なものです。これらが減少すると差別、いじめは勢力を増してきます。

 冒頭の聖句は、愛を具体的に説明している箇所です。寛容、親切は、誰もが求めるものであるにも関わらず、他者に対してそれほどしていないものではないかと思います。もし他者に対して寛容、親切にできたとしても、それを吹聴し自慢したのでは何にもなりません。それは、愛から生じた寛容、親切ではなく偽善に分類されるものかも知れないのです。

 自己愛は、“愛”がついているものの、ねたみ、高慢を容易に生み出す人間の性質の一つです。一方、真実な愛は、寛容、親切を生み出し、共生を可能にします。弱い人が普通に生きられる社会になるためにも、私たちは、真実な愛について学ぶ必要があるでしょう。簡単には得られないかも知れません。でも罪人を愛するがゆえにいのちを捨てられたイエス・キリストの実例があります。理論上のものか実際のものか、それを知っているだけでもちがいます。小さな親切を自然にできるように、異なる価値観の人を、心から受け入れられるように・・・なりたいものです。

2023年8月1日(火)更新

 

 

 

 

 

 

「曲げられたものを、まっすぐにはできない。欠けているものを、数えることはできない。」                      伝道者の書 1:15

 先日の深夜、心房細動(脈の不規則が激しく息苦しい状態)になり不安な時間を過ごしました。二年前の8月に手術をしたあの症状の再発です。夜中にソファーに座ったり横になったりしながら飲んだ薬が効いているのを待ちました。薬を飲んだからといって通常に戻るわけではありませんが、とにかく安静にして待つしかありません。

 二年前の術後、再発が繰り返されるようなら再度手術を・・といわれていましたので、再手術の事を考えていました。妻や教会に負担をかけることになるし、礼拝説教の協力を誰かに依頼しなければ・・・等々ぼんやり考えていました。心房細動の原因はわかりませんが、加齢やストレスが要因になるといわれます。私は、カフェインをとると心臓がドキドキすることもあって、コーヒーは、何年も前から止めています。紅茶や煎茶も普段あまり飲みません。もしかすると直接関係はないかも知れないのですが、少しでも効果があるならと続けています。何かすれば、どうにかなるなら、何とかしたいものですが、自分ではどうにもできないことがあります。それは、病気だけではありません。

 冒頭の聖句は、どうにもならないことを受け止めざるを得ない格言のような性格でしょう。曲げられたものが、正義や道理であるならば、時間がかかっても何とか正される事を求めなければなりません。でも、それがもし神がゆるされたこと、神がご計画のうちになされたことであるなら、それを人がどうにかすることはできません。神が曲げられたなら、神が直されるときを期待して待つしかできません。この点に関して人は全く無力です。

 本来“欠けているものを、数えることはできない” はずですが、欠けていることに気付かないと、あるかのように数えてしまいます。あると思っていたが・・・実際には無かったことに気付く事ほど空しいことはありません。名誉を持ち、富を持ち、健康を持っていても、それが評価されるのは、人の間のことです。永遠の神の前で人は、無のような存在です。でも、人には、そんな欠けだらけの無力な自分を認め、受け入れる能力といえるものがあります。それは、神の前に価値あるものとして数えられています。どんなに少なくても、確かにあるものを数えることができる人は幸い人です。

脈拍は、その後正常値内におさまり、現在薬1錠になりました。

2023年7月25日(火)更新

 

 

 

 

 

 

「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたがわたしが与えようとしている地に入り、収穫を刈り入れたなら、収穫の初穂の束を祭司のところに持って行きなさい。」レビ記23:10

 近くにある麦畑は、みごとな黄金色になっています。先日、大型の機械が刈り入れ作業をしていました。北海道は、本州より種まきが早い分、収穫も大分早いようです。

 先日、車を運転していたら、遠目に麦畑だと思っていたのに近づいたら菜種の結実でした。その畑は、一面の菜の花畑でそこを通る人を見事な黄色の花で楽しませてくれました。ここ滝川では、おなじみの風景ですが、菜の花の“その後”を見た事がない方のために写真をアップしておきました。

 収穫には、果物も野菜も、穀物もあります。冒頭の聖句は、神がイスラエルの民に収穫の初穂の束を祭司のところに持ってくるように記しています。食生活の基盤ともいえる小麦、大麦等神への捧げものとして名前があげられています。人々は、収穫そのものが神の恵みとして、最初の刈り入れの束を持参したのでした。

 収穫の感謝を神々に・・という考えは古くからあったようです。太陽、水、大地、風・・自然に向き合う農業は、特に人間の及ばない領域を意識せざるを得ませんから、収穫は、当たり前でなかったわけです。現在も大雨、台風の被害は甚大で作物の収穫は、当たり前ではない現実を突きつけられます。様々な災害から守られて、収穫の際に感謝を捧げるとしても、今は何に(誰に)感謝を捧げているのでしょうか。特定の宗教に属していない人は、漠然とした何かに感謝しているのかも知れません。

 子どもが就職した際に、初任給で親に〇〇して感謝を表した・・という話を聞きます。自立するまで支えてくれたことへの感謝でしょう。恥ずかしながら、私自身は、何かした覚えがありません。母から「〇〇さんは、初任給で△△買ったらしい・・」と聞いたことがあり、あまのじゃくな私は、自発に意味があるのに・・と抵抗した記憶がうっすらあります。せめて賞与が出た時に何かすればよかったとずっと後になって思ったものです。

 私たちが大人になるにも、仕事を覚えるにも、学びを深めるにも・・・沢山の人の関りがあって初めて可能になります。本人の努力はもちろん必要で、その評価を軽んじるものではありませんが、作物が生長するのに様々な自然が深く関わっているように、私たちも目に見えるところだけではなく、むしろ見えないところで関与してるもの、環境として支えてくれるものに感謝を持つものでありたいと思います。神は、私たちが良い実を結ぶ人生を歩むために、見えることろ見えざるとことに必要なものを備えていてくださるお方です。神に感謝を捧げることができるなら、人への感謝は、比較的自然にできるのではないか・・と思います。十代の私に教えてあげたいです。

2023年7月18日(火)更新

 



「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」イザヤ49:15

 妻に買い物を頼まれることがあります。自分を過信してはいませんので数が多いときはメモしています。最近は、スマホのメモ機能を使っています。これは便利です。でも三つ以下なら忘れない自信があるのでメモしていませんでした。ところが先日、買い物中にどうしても三つめが思い出せません。あ・い・う・・何かヒントはないかと探ってみたり、商品を見たら思い出すかもと店内を少しうろうろしても見ましたが、結局あきらめて妻に電話しました。買い物は、終わりましたが、何となく嫌な感じが残りました。私の脳が深刻な状態か否かはわかりませんが、明らかに機能が落ちていることを実感したからでしょう。忘れたものが何だったのか実は、今も思い出せません。ある年齢以上の方なら、きっと同情してくれることでしょう。

 大抵の親は、我が子を深い愛情で包み、決して忘れない・・・ものだと思います。冒頭の聖句にあるように、特に母親は、自分の胎に宿した月日がありますので父親とは異なる感覚を持っているものと思います。でも大にして例外はあります。乳飲み子をかわいい我が子と思えない悲しい事例は、幾度となく報道されています。そのような例外があるのは事実ですが、神には、例外はないといいます。“このわたし”とは、神ご自身のことです。神は、母親が乳飲み子を抱き、その欲求に慈しみをもって答えるように、私たちを常に気にしておられます。子どもが自立すると

親はひと息つきますが、子どもの事を忘れることはありません。でも親も年を取ります。だれもが認知機能が衰え忘れることが多くなります。私の母は、病の故に数年前から私を息子と認知できなくなりました。でも、神は、いつまでも私たちを子どもとして愛し、受け入れてくださいます。私たちが肉体の弱さのゆえに、“誰が神であるか”わからなくなっても・・・です。

 

2023年7月11日(火)更新

 

 

 

 

「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きることは。」             詩篇133:1

 先日、長女が友人の結婚式出席のため久しぶりに帰省しました。コロナ禍にあって帰省がままならなかったこともあるのですが、いったい何年ぶりでしょう。二女、三女も既に家を出ていますので、五人で食卓を囲むのが、いつ以来なのか思い出せませんでした。子どもたちが小学生の頃は、それなりに関りがありましたが、中学、高校・・・あっという間に時が過ぎてしまった気がします。気がつけば、夫婦二人暮らしになっていました。5人で暮らしていた時は、お弁当や入浴の時間など、それなりに慌ただしかったと思いますが、今は、それらがただ懐かしく感じられます。

 先日、5人揃ったとき、それぞれの職場の話題になり、話についていけない私は、子どもたちの成長を感じながら、しみじみと聞いていました。

 兄弟姉妹がいっしょに、楽しく暮らせることは、本当に幸せなことですが、忙しく、慌ただしく生活している最中では、案外気付けないのかも知れません。

 

 冒頭の聖句、この詩篇には、副題がついていて「都上りの歌。ダビデによる。」とあります。ユダヤ人がエルサレムに巡礼する際に歌ったようです。ですから、ここでの“兄弟たち”とは、親族の兄弟だけでなく、信仰によって神の家族、兄弟姉妹とされた人たちのことです。肉親の兄弟姉妹でも、みな仲が良いわけではないでしょう。結婚や自立等を機に疎遠になることもあります。でも多くの人は、楽しい時間を共有してきたのではないかと思います。何が幸せ、何を楽しいと思うかは、人それぞれかもしれませんが、一緒になって何かをした時間は、良い思い出として共有されているのではないかと思います。

 神は、私たちが幸いな人生を過ごすために、生きることに失望しないために、人と人をつないで下さり、同じ思いを与えてくださるお方です。

 

2023年7月4日(火)更新

 

 

 

「あなたが食欲の盛んな人であるなら、自分の喉に短刀を当てよ。」箴言23:2

 先日、休暇を頂き一泊二日の温泉に行ってきました。食事は、久しぶりのバイキング形式でした。本当にいろいろな種類があって迷いました。お汁粉もあったのですが、手を出しませんでした。餡にこだわる私は、これまでビュッフェスタイルのお汁粉で満足したことがなかったからです。でも最近は違うかな・・と気が変わり最後に少しだけとってみました。お腹が一杯ということもあったかも知れません、イメージした味とは、違っていました。

 食事には、食事自体を楽しむことの他に、話し合いや顔合わせが目的の場合もあります。冒頭の聖句は、家族や友人との楽しい会食の席ではなく、ましてや、必死のダイエットに臨んでいる人へのことばでもありません。前節には、「あなたが支配者と食事の席に着くときは、前にある物によく注意するがよい。」とあり、後の節には、「そのごちそうを欲しがってはならない。それは偽りの食物である。」と続いています。

 支配者は、ときに気に入らない者を食事の席で悪事を企てます。表面的には、友人を装っても内心異なる場合があります。”自分の喉に短刀を当てよ”とは、目の前にごちそうがあっても、それが友情の証しは限らない場合があるので警戒せよということでしょう。

 また、支配者は、自分の側に引き込もうとして宴席を設けることもあります。賄賂、収賄の相談は、会食の席で行われるのかも知れません。おいしい食事は、人生を豊かにするものですが、おいしい話は、後々苦い思いをします。

 そんな悪意のある支配者ばかりとは限りませんが、少なくても隠された動機があるかも知れませんので警戒すべきでしょう。

 食欲は欲のひとつですが、食欲自体が悪いわけではありません。旺盛なのは健康の証しともいえます。ただ、その旺盛さが誘惑を招くことがあります。貪欲は罪を引き寄せます。警戒し、注意を払い、欲してはならないものとの見極めは必要でしょう。

 

2023年6月27日(火)更新

 

 

 

 

「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。」

                            ローマ92

 術後(人工関節)の膝がしばしば痛むことは、何度かここに書いています。場合によっては、半月板の縫合手術をした反対側の膝も痛むときがあって、浮かない顔をしている日が時々あります。痛みはなかなか厄介なものです。

 先日、母(埼玉)を介護している私の姉から最近の様子を聞いて胸が痛くなりました。認知症の母は、元気なのですが、移動に車椅子が必要なので活発な母が心配で目が離せないというのです。私は、高齢の認知症患者は、昼間うとうとしている印象があったあのですが、母は違うようです。近くにいれば、交代して姉に休んでもらいたいところですがどうにもできません。姉ばかりに負担をかけていることに心が痛みます。

 肉体的な痛みは、辛いものですが、心の痛みは、ときには肉体の痛みを超えることもあります。心の痛みは、大なり小なり誰もが持っているものではないかと思います。

 冒頭の聖句は、伝道者パウロのことばです。彼は、大きな悲しみ、心の痛みが絶えずあると記しています。聖書には、子を産むときの痛み等、肉体的な痛みを表すことばがあります。けれども冒頭の心の“痛み”は、霊的な痛みとして新約聖書に二度出てくるだけです。

 信仰心の篤いパウロは、”いつも喜んでいなさい”と人に言うほど心に喜びのある人でした。一方で同胞が神を否定したり、信仰者が不信仰な生き方をしていることを悲しみ、大きな痛みとして感じていました。

 ”自分が満足のいく人生を送ることができれば、人はどう生きても関係ない”という人もいるでしょう。確かに他者の人生に関わることは難しいことですから、そういえなくもありません。でも、他者の喜びや悲しみに近づいていける人の方が、幸いな気がします。悲しみを抱えること自体、できれば避けたいものかもしれませんが、受け入れて一緒に悩むことができれば、それだけ心が耕され豊かになるような気がするのです。

 心は、喜びだけでも、悲しみだけでも一杯にはならず、両方のスペースがあるように神がつくられたのではないかと思います。

 

2023年6月20日(更新)

 

 

 

 

 

「 ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」ローマ人への手紙14:5

 6月16日は、「和菓子の日」だそうです。起源は、疫病退散を願った神事にあるとか…言われはいずれしても、和菓子は、日本の食文化として大切にしたいものです。年を重ねると和菓子を好む人が多いような気がしますが、子どもの頃から洋菓子に親しんでいる人が年配になったら、洋菓子派が増えるのかも知れません。それはそれで良いのですが、小豆から餡を作ってお汁粉を頂くのが好きな私としては、和菓子店が減るのは寂しいです。

 毎日何らかの「〇〇の日」「記念日」になっているようです。大抵の人は、自分の誕生日を特別な日として覚えていると思います。この世に存在するようになった記念の日ですから、経緯や各家庭の事情はさておき・・・大切にしたい日ですね。

 冒頭の聖句は、ある日を特別大切にする人と、そうでない人がいることを記しています。熱心なユダヤ教からクリスチャンになった人の中には、ある特定の日を神の命令として厳守しなければならないと考えていたようです。旧約聖書には確かにある日を“永遠の掟、守らなければならない日”として記していますから無理もありません。それは、神の恵みを覚えるためでもありましたから…守ることが信仰の証とも言えました。でも、イエス・キリストは、神の御子として十字架にかかり、神の御心をなしとげたお方です。そのイエスが、新しい戒めとして神を愛し、互いに愛し合うことを諭されました。愛する以上に大切なことはありません。仮に特別な日を厳格に守り、自分を律して時間を過ごしたとしても、愛がないなら意味がありません。逆に、特別なことをしなくても神への愛、人への愛をもって日々過ごすならそれは大変価値ある日常です。

 大切なことは、どんなふうに日々を過ごしているかを人に見られることではなく、神にとって自分が特別なもの(十字架が証し)として今日も生かされていることの確信の有無でしょう。心に確信のある人は、柔和で、他者にも比較的寛容であるように思います。

 

2023年6月13日(火)更新

 

 

 

 

 

 

 「あなたが主に拠り頼むことができるように、私は今日、特にあなたに教える。」

                              箴言22:19

 偉人伝を読むと、成功の蔭に忍耐と努力は勿論のこと、人との出会いが影響を与えていることが多いように思います。一方で光だけの人はいませんから、伝記には書かれない、陰の部分もあるのが人間です。それも含めて、懸命に生きた人から学ぶことは多いと思います。否、反面教師ということもありますので、どんな人からも学ぶことがある・・と言えるでしょう。ただ、あまのじゃく気質のある私としては、“教えたがる人”から学ぶことはあまりないような気がしています。誠実にコツコツ仕事をしている人を見ると、こちらから“教えてもらえますか・・”と頼みたくなるのです。恐らく前者に”上から目線”を感じてしまうからでしょう。

 信仰の世界はどうでしょう。恐らくどんな宗教でもいわゆる教師のような立場があると思います。冒頭の聖句にあるように、よき信仰に導く人がいます。「私・・」とあるのは、前節で知恵のある者たちのことを指しています。聖書で「教える」と語られる場合、神ご自身か預言者を通して語られることが多いのですが、知恵ある者のことばは、博学であるとか人生経験が豊かということに留まらず、聞く者を善き人生へと導く示唆に富んだことばなので心を向けて聞くべきだといいます。ただ、その人が知恵のある人かどうか判断が難しい場合があると思います。一般的には、信頼して聞き従った結果、後で後悔することがあります。

 人が語ることばを神と同列においてしまうのは危険です。ですが、誰にも教えられることがないとしたら、それは残念なことです。私たちは、教えられなければわからないことが沢山ありますし、何より成熟の機会を失ってしまいます。

 知恵のある人は、神に拠り頼んでいます。人の心が自分に向けられるよりも神に向けられることを望んでいます。そのような人は、高慢から離れ、謙遜に生きようとしています。完全な人は誰もいませんけれど、人が心から求めていることは、少し観察すれば、案外わかるものではないでしょうか。

 今日、神から、或は、人から学ぶものがあったなら幸いな一日であったと言えるでしょう。

2023年6月6日(火)更新

 

 

 

 

 

「わたしは あなたの神 主である。わたしが あなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きく開けよ。わたしが それを 

 

満たそう。」詩篇81:10

 

 先日の夕食時、箸でおかずを口に運んで食べようとしたとき、“カク”と音がしたかと思ったら、その後ひどい痛みに襲われました。恐らく顎関節症というものでしょう。大分昔、大口をあけてハンバーガーのようなもの(覚えてない)を食べた時になったことがありました。その時は、関節が一瞬はずれたかのような感じでした。今回は、そこまで開けていないのに何故??と思いましたが、老いで関節が弱くなっていたのでしょうか、以来、お茶を飲むにも、あくびをするにも気を付けないと痛みで“あぅ!”と声が漏れてしまいます。治療が必要なのかどうか、もう暫く様子を見ようと思います。

 冒頭の聖句は、神がイスラエルの民に語ったものです。大きく口を開けよ!とは、口を開けて天からの食物を待ちなさい・・・という意味になりますが、文字通りの意味というより、神に求めて、与えられ、満たされなさいという意味でしょう。実際、イスラエルの民は、荒野で神に養われた時代があり、その時は、食物としてマナや鳥(うずら)が与えられました。その時でも民は口を開けて待っていたわけではありません。神が食物を与えて養って下さったように、私たちが必要なものは、主がご存じですが、人は、神に求めず、神でないものに求め、偶像さえ求めました。

 困難に陥ったときに、私たちは、とりあえずの策ばかりを考えることがあります。即効性のある対策も確かに必要ですが、長期的な視点、他者の視点から見ると別の必要が見えてくることがあります。神は、すべてを知っておられるお方ですから、神に求めることで、よりよい結果を期待できます。

 せっかく心を神に向けても、神が与えて下さるものを受け入れるスペースがなければ、与えられてもこぼれてしまいます。聞く耳のある、柔軟な心は、その人の器もまた大きくすることでしょう。

2023年5月30日(火)更新

 

 

 

 

 

 

 

「主は、家畜のために草を また 人が労して得る作物を生えさせます。地から食物を生じさせてくださいます。」詩篇104:14

 

 食べるのは好きだけれど、自分では採りにいかない・・・ものに山菜があります。かつてフキを採りに行ったことはありますが、膝を痛めてからは全く縁遠くなってしまいました。そんな事情を知ってか山菜を頂くことがあります。食材が高騰するなか、頂ける食材はありがたいし、何より田中さんにあげよう(妻のこと)と汗をかいて下さることが嬉しく思います。我が家は、収穫のおすそ分けできるほど家庭菜園をしているわけでもありませんので、後で何かお返し・・の機会もありません。私たちにできることは、食前(フキ、わらびの煮物、タラの芽天ぷら等)の祈りの中で、くださった方に感謝し、その方のご家族に祝福があるようにと祈ることくらいです。

 “大地(自然)の恵み”とはよく言ったものです。どこにでも嫌というほど生える雑草は、ある人には、厄介者ですが家畜にとっては食料絨毯のようです。乾燥地帯では、草を探して移動する必要もありますが、基本食べるに困らない環境を神が与えて下っています。

 冒頭の聖句にあるように“人が収穫のために労する作物”もあります。食べておいしい作物を得るために、人は、知恵を働かせ、労働しなければなりません。でも人は、種を蒔くことはできますが、発芽、生長、結実に関して人ができることは殆どありません。それは、大地を通して神がしてくださることです。

 人の手によらない山菜、魚類等・・正に与えられる恵みといえるでしょう。恵みとは、受けた側が与えてくれた相手に対して情けや暖かい感情を感じる場合に使うことばです。でも私たちが土や太陽、空気の存在に感謝はしても、それらに感情を感じることはありません。

 時に自然は脅威でもあります。けれども春の暖かい日差しを受けた大地が、フキやわらびや木の芽を伸ばすとき、神は、私たちに“おいしいうちに食べたらいい・・”と言って下さっているのかもしれません。無添加無農薬食物繊維豊富美味・・・言うことありません。与えて下さる主に感謝の心を向けるのが、それを頂く人間の自然な姿なのではないかなぁと思います。

2023年5月23日(火)更新

 

 

 

 

 

 

 

「全知は安らかに憩い、喜びの歌声をあげる。」イザヤ147

 

 滝川市は、かつて菜の花で作付け日本一になったことが何度かあるので、5月のこの時期、ネットには”滝川市 菜の花・・”と出てきます。一面の菜の花畑は、見ごたえがあるので、私も毎年見には行っているのですが、作付け面積を他県と競っていた頃とは異なり、今では、場所を探して車を走らせている感じです。以前ほどではありませんが、やはり目の前に広がる一面の菜の花を見ていると、心が広げられるような視野が広がるような気がするから不思議です。菜の花は、食用とされたり油を搾ったりと実用的です。収穫の時期には、また別の景色が見られます。

 一面の菜の花畑を見ていたらウクライナの麦畑やひまわり畑を思い出しました。規模は違いますが、戦争によって穀物の生産、輸出が滞り、経済的にも打撃を受けている国が沢山あることにあらためて戦争の愚かさを思います。

 冒頭の聖句は、かつてバビロンが権勢を誇り、おごり高ぶり横暴で虐げる国であったことから、神のさばきを招いて倒される預言がされたときのものです。全地とは、虐げられた国のことで、その土地が憩いを取り戻すといいます。

 一面に広がる農作物は、平和の証しです。たとえ今、砲弾で畑が荒らされ、収穫前に焼き払われることあったとしても・・・神は、土地に安らぎを与え、人々はそこに集いて憩いを得、喜びの歌声をあげる時が来ます。虐げられている人の苦しみを知っておられる神は、憩いと喜びを約束してくださるお方です。

2023年5月16日(火)更新

 

 

 

 

 

「ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。」

                            創世記40:23

 

 人の名前が出てこないことが珍しくない私ですが、加齢とともに誰もがなる現象だそうで仕方ありません。私より若い妻も同様なことを言いますが、出来事を覚えている能力は、明らかに私よりも優れています。私は「そうだったっけ・・」ということが結構あります。印象に残ること、大事に思うことは、人によって違うのでそれも仕方ないのかもしれません。でも、感謝の心を持つためにも、受けた恵みは忘れず、与えたものは忘れたいと思うのですが、どうも逆のような気がします。

 冒頭の聖句は、無実の罪で投獄されたヨセフが、同じ獄にいた献酌官の疑いが晴れて釈放される時に、ヨセフの釈放を王に話してくださいと願ったにも関わらず、献酌官が忘れてしまったというものです。“ところが”とあるのは、ヨセフの夢を解き明かす力が本物であることを体験した献酌官なのにということでしょう。ヨセフがただの若い奴隷だったら、忘れることはあったかも知れません。でも彼は、獄にいた献酌官ともう一人の三日後の未来を預言した人物です。献酌官は釈放され、もう一人は処刑されました。印象に残らないはずはないと思うのです。ただ人間は身勝手なもので、自分が釈放され自由になった途端、獄中の出来事が悪夢だったと過去にしてしまうことは十分あり得ます。

 また、献酌官は、王の身近にいる存在ですから、ヨセフのことを王に伝えることはできますが、獄中の身分が低い者の事の訴え(性的乱暴の嫌疑)を積極的に取り上げて王に伝えようとするかどうか・・・。

「恐れながら・・・・」時代劇で家臣が殿様に進言することがあります。信任を損ない疑いを持たれれば、左遷も降格も意のままにできる権力者を前に、何か物申すこと自体、勇気が必要なのではないかと思います。献酌官もそのような状況ではなかったかと思うのです。そうではあったとしても、無実の罪で服役しているヨセフにとって釈放された献酌官は、頼みの綱でした。

 理由は、いろいろあるとしても、私たちの不誠実、無頓着、自己中心が弱い立場にいる人をさらに追いつめ、傷つけているかもしれません。神経質に自分を問い続ける必要はありませんが、時々考える必要があるのではないかと思います。

2023年5月9日(火)更新

 

 

 

 

 

 

 

「蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その蔭に空の鳥が巣を作れるほどになります。」マルコ4:32

 教会敷地のわずかなスペースに球根や花の種を蒔いて楽しんでいます。もう少したったら百日草やヒマワリを蒔こうと思います。ヒマワリは、見ごたえがあるのですが、場所をとるので丈の低いヒマワリを蒔こうかと思っています。

 冒頭の聖句は、主イエスが神の国をいくつかにたとえて話された中のひとつ“からし種のたとえ”です。からし種は、胡椒の粒のように非常に小さな種ですが、生長すると2メートルにも3メートルにもなるといわれます(パレスチナ地方)。鳥が巣を作れる・・は、大げさではないようです。

 神が主として権威を持ち、治めている領域、神の国は、国連に加盟するようないわゆる国家としては存在していません。目に見えるようになるのは、まだ先のようです。今から約2000年前、盲人の目を開き、死者をよみがえらせる等、数々の奇跡を通して神が人々の間におられることを証しした主イエスは、“神の国”がリアルなものであることを示されました。パレスチナの一地方に蒔かれた小さな種は、十字架と復活という驚くべき力を内包していました。今ではキリストを信じる人は世界中にいます。

 北海道には、400を超えるキリスト教会があるといわれます。私の記憶では、20年以上前から、それほど増えていないと思います。滝川市内にあるキリスト教会は、むしろ減っています。生長し続けるのは、どうやら数ではなく質のようですす。人間の成長も、身体が大きくなる等目に見える成長の時期がありますが、身長が止まっても内面の成熟、成長は一生涯続きます。人間の成長は、知識や技術を得ることも含まれますが、それ以上に得たものを誰にどう使うかによって計られるのではないかと思います。

 主イエスは、ご自分のいのちを罪人の救いのために差し出されたお方です。私たちにも人のために何かを・・という思いはあるでしょう。愛は尊く、価値あるものと理解はしていても、隣人を愛するには至らず、いつまでも自分本位という現実もあるかも知れません。でも、真実の愛を知る人は、芽を出し生長する可能性があります。私たちの心は、蒔かれた種が伸びて枝を張るには、十分な空間があるのではないでしょうか。

 

2023年5月2日(火)更新

 

 

 

 

「人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。しかし、アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった。」創世記2:20

 4月24日は、日本における“植物学の父”といわれる牧野富太郎が生まれた日でした(1862年)。牧野氏は、新種、変種約2,500種を発見、命名したそうです。いつもなら気にしない日ですが、NHKで牧野富太郎氏モデルの朝ドラをしているものですから興味を持ちました。先人が、研究、分類してくれたおかげで私たちは、名前で呼ぶことができるのだと改めて感謝しました。残念ながら私の場合、草花の名前は、うろ覚えが多く、会話の中で名前を出せるものは僅かしかありません。

 先日、「今が見ごろ・・」と聞いたので“エゾエンゴサク”を見に浦臼まで行きました。地面から20㎝くらいでしょうか群生している姿は、素朴で美しく写真を撮っている方も多くいました。実は、家に戻ってからも花の名前が思い出せませんでした。何度かスマホで確認してやっと覚えられた気がしています。

 冒頭の聖句にあるように最初の人、アダムは、生き物に名前をつけました。神は、人を知恵あるものとして造られました。知恵は、人が他の生き物と決定的に異なる存在であることを証ししています。名前をつけるには、知識も知恵も必要であり、何よりことばを扱わなければなりません。それに名前を呼ぶには覚えている必要もあります。

 私たちには、親(親族等)がつけてくれた名前があります。たいてい豊かな人生、幸せな生涯を願う思いが文字に込められています。そんな思いを受け取ることができるなら私たちは一人でないことを知るでしょう。

 冒頭の聖句後半には、アダムが他の生き物とともに生きるものの、人格的な交わりでなかったことから、自分と同じ人格を持つ助け手の必要を意識するようになったことが記されています。人は、自然と切り離されては生きていけないように、一人で生きられません。

 神は、見えない何か・・のようなものではなく、思いを語り、伝える人格的なお方です。私たちの名前を知り、その背景を知っておられます。神は、私たちを助けて下さるお方なのです。

*ちなみにエゾエンゴサクの和名は、蝦夷延胡索。蝦夷はわかるけど延胡索は・・・地中の塊根が漢方薬の延胡索に形状が似ているからだそうです。

 

2023年4月25日(日)更新

 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」                       Ⅰコリント15:55

 冬の間積み上げられた教会裏の雪の山もなくなり、水仙のつぼみは、もう数日で花を開くでしょう。昨年、数色の彩りで楽しませてくれた秋桜は、枯れて地面に倒れています。これらか芽を出す花たちのためにその茎を無意識に素手で何本か抜いていました。そのうちに軽い痛みを覚えたのでよく見ると、右手人差し指に小さなとげが見えました。利き手でない左手の作業で、少してこずりましたが何とか針でほじくり出せました。とげの正体は、秋桜の枯れた茎の一部、一ミリあるかないかの小さなものでした。とげは、いのちに関わるものではないものの、何をするにもどこか気になって仕方ないものです。

 冒頭の聖句にもある“死”は、私たちにとって大きなテーマです。誰も死から逃れられません。短い人生、楽しんで生きたいものですが、そうはいかない現実があります。男女ともに平均寿命は、80歳を超える日本ではありますが、当然若くして亡くなる方もいます。災害、事件、事故、病・・理由はいずれにしても、だれもが死を意識せずに生きるわけにはいかず、年を重ねるごとにそれは増すことでしょう。まるで、それまで意識しないで済んだのに、何かの機会に気になって仕方がないまるでとげのようなものです。でも、冒頭の聖句は、私たちに勝ち誇ろうとする死が、とげのような存在である死が、いったいどこにあるのか?と記します。この聖句の前後は、イエス・キリストの復活後について書かれているので、私たちにとって死は大きなテーマだけれど、死からよみがえったキリストによって、もはや死は、悩ましく、不気味なものではなくなったといいます。

 これから、ユリ、チューリップ、紫陽花・・・・数種の花が咲いてくれます。いのちの勢いを見る思いです。人は、必ず老いていきますが、その先にある朽ちることのない、あたらしいいのちの勢いをそこに重ねてみてはいかがでしょう。

2023年4月18日(更新)

 

 

 

 

 

 

「ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。」マタイ28:6

 9日日曜日は、イースター、復活祭でした。磔にされたイエス・キリストがよみがえられたことを記念するキリスト教のお祭りです。お祭りといっても一般的なフェスティバルというよりも記念礼拝といった趣でしょうか。イースターエッグなど古くから新しいいのちの象徴として、ペイント等したり楽しんできました。卵は、かたい殻をヒヨコが割って出てくる等、新しいいのちの象徴として用いられてきまいた。うさぎは、多産であることことからイースターのキャラクターとして用いられているようで、一般の商品でも見かけます。キリスト教会との関係は、よくわからないのでですが、クリスマスと同様、時代、文化、地域によって生まれてくるものもあります。

 冒頭の聖句は、イエスが墓に葬られた時に、当時の埋葬の習慣であった香油を塗ろうと思った女性が、行動を制限されていたため(安息日)、その日が明けるのを待って、墓を訪れた時に御使いからいわれたものです。イエスは、このときよみがえっていたので墓は空でした。その後、女性たちはよみがえったイエスと会って会話しています。

 イエスは、形の上では、正式な裁判を受けて、罪人として処刑されました。それが不当で理不尽なものであることは、聖書が記していますが、再審の制度も機会もなく世の力に屈するかのように処刑されたわけです。しかし、イエスご自身が前から言っていたように、三日目によみがえりました。神のことばの権威は、人のものとは異なり「言ったができなかった、いいところまで進んだが当初の計画とは違うものになった・・・」ということがありません。死をも打ち破り、新たにいのちに生かす圧倒的な力に満ちています。イエスは、よみがえって以来、今も私たちの身近におられます。

 お墓に行くと亡くなった親族を思い出して懐かしくなります。やがて自分も年を重ねて人生を終えていくのだ・・と悲哀のようなものを感じざるを得ません。けれども、イエスの空の墓を見るなら、死の先に新しいいのちがあるのだと新たな期待と希望が湧いてきます。イエスは、ご自分が“三日目によみがえる”と言っただけではありません。「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えて下さったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。」と言っていました。誰でも、どのような状況におかれている人でも、新たにやり直す力を神から頂くことができます。その希望が、困難な時代にあっても人を忍耐強くしてきたのではないかと思います。

 

2023年4月11日(火)更新

 

 

 

 

 

「また、盃を取り感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその盃から飲んだ。」マルコの福音書14:23

 戦国時代のドラマを見ていると策略、裏切りがその後の明暗を分けることがよくあります。生き残るためのやむを得ない選択なのだと思いますが、忠義を貫いてこその武士なのでは、と思ったり、我慢の限界だったのかなと同情したり複雑な気持ちになります。一方裏切られた側に立てば、その怒り、腹立たしさは十分想像できます。謀反の疑いをかけられただけで厳しく処罰されるのも、裏切りによって命運尽きることもあり得る時代だからでしょう。

 イエスは、12弟子の一人、ユダの裏切りによってイエスを死罪にしようとする勢力に売り渡されます。そのことを知っていたイエスは、最後の晩餐の席で誰が裏切るかを知らせ、ユダはその席を離れました。最後の晩餐といっても豪華な食事だったわけではありません。旧約聖書にある「神の恵みによるエジプト脱出の出来事」を後代に語り継ぐための祭りでしたから、質素でもそれぞれ意味のある食事でした。

 寝食を共にしてきた弟子ユダの裏切りに、イエスは、心中穏やかでいられるはずはありません。かといってユダを“裏切り者!”と怒って処罰するわけでもありません。イエスは、十字架が罪人を救うための避けられない方法であることを受け入れていました。ただ、ユダのしていることは、神の敵として歩むことであり自らに災いを招くことになります。そのことを憂いていたでしょう。

 最後の晩餐の席で、イエスは、盃(ぶどう酒)を弟子たちにまわしました。冒頭の聖句にあるように“感謝の祈り”をささげてです。弟子に裏切られ、これからムチ打ちや処刑が待っています。それでも神に感謝の祈りをささげました。そこに恨みつらみはありません。あるのは、ご自分の使命に生きる誠実さ、罪人を赦し受け入れる愛です。同じ神による恵みですが災いが過ぎ越す「過越」の恵みから、イエスの十字架による「罪の赦し」の時代に入ろうとしていました。

 今週は、受難週です。イエスが十字架に掛かられた金曜日を迎えます。十字架を見上げる人々の中に、あなたもいるのではないでしょうか。

2023年4月4日(火)更新

 

 

 

 

「イエスはその教えの中でこう言われた。『律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。』」マルコの福音書1238.39

 滝川も雪解けが大分進んできました。教会裏は、駐車場の雪を寄せている関係でまだ山になっていますが、駐車場はすっかり地面(砂利)が見えています。日当たりのよい場所では水仙の芽が出てきました。そろそろ家庭菜園の準備をする人もいるようでホームセンターで肥料を買っている人を見かけました。

 私は家庭菜園をしている・・とは、とてもいえない適当手抜き者です。そのせいでしょうか農業を生業としてる方には、深い尊敬の念を抱いています。農業に限らず、本格的に真摯に取り組む人は、その分野で相当の学びをしているものです。知識や技術を教えてくれる人に対する尊敬は、教えを受ける者の自然な感情だと思います。しかし残念ながら、その立場(権威)を利用して、学ぶ者の人格を貶め、歪んだ欲望を満たそうとする者がいないわけではありません。

 冒頭にある“律法学者”は、今でいう旧約聖書を学術的に学び研究する人たちです。本来批判されるような人たちではなかったのですが、学び、研究を深めていくうちに聖書の学びが、信仰を刷新し神理解を深めるというより、解釈の議論や学びのための学びになってしまいました。聖書を学術的に学ぶことが難しい一般市民にとっては、その違いを見抜くことは簡単ではなかったかも知れませんが、主イエスは、続けて彼ら(律法学者)が願っているのは、人から立派だと称賛されたり注目されることだと指摘しました。次節では、“見栄を張って長く祈る”とも記しています。確かにこれなら篤い信仰者どころか、ただの見栄っ張りにしか見えません。権威ある学問の学び舎で知識、理解を深めたとしても信仰は、紙のテストで測れるようなものではありません。聞いていた大勢の群衆は“信仰は、表面的なものではなく心のあり方”なのだと気付いたことでしょう。

 熱心な人と思われたい、できる人と思われたい、謙遜な人と思われたい・・・こんな感覚に見舞われることがあるかもしれません。教える能力のある人ほどそうなり易いでしょう。でもそんな感情に正直に向き合うことができれば、うぬぼれや自己顕示欲といった厄介な性質と向き合うことができるでしょう。完全に陥ってしまうと自ら気付くことがとても難しくなります。気をつけていたいものです。

 

2023年3月28日(火)更新

 

 

 

 

「"ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」"

マタイの福音書 19章 6節

 先日、姪の結婚式(東京)に出席しました。緑豊かな庭園で式が行われ季節がら桜が咲いていて文字通り花を添えていました。レストランウェディングというらしく、個人的な感覚では、今後3年間は素食に耐えなければならなくなるかもと思うような素敵な料理でした。彼女が社会人になってからは、冠婚葬祭で数回しか会っていませんが、すっかり大人の女性になっていて、自分も歳をとるはずだと納得しました。

式で冒頭の聖句が読まれました。‘‘ですから’’というのは、男は、父と母を離れ妻と結ばれ一体となることを前節で説明しているので、それを受けてのことです。

結婚式は、二人にとって一番感情が高まっているときかも知れません。でも多くの既婚者が実感している通り結婚式はスタートに過ぎません。そんな大事なときだからこそ縁起がかつがれるのでしょう。‘‘引き離してはならない’’といいますが、「引き離す」は縁起が悪いことばです。でも、聖書は、現実から愛を語ります。引き離す力が外からのものなら、二人の結束は一層強まるかもしれませんが、この力は、夫、妻どちらからも生まれる可能性があります。そんな危うさを抱えているのが私たちの現実です。私たちの愛は、相手が変わっても変わらないものではないでしょう。そもそも人は、経験と共に、時間の流れと共に視点が変わることは自然です。でも初心を忘れずにいることはできます。

 知人から友達へ、友達から特別な人に、そこから生涯共に過ごす人への心の変化は不思議です。ここに神の導きを認める人は、結婚が互いの気持ちだけで成り立っているわけではないことに気付くと思います。神が結び合わせたものなら、二人はより良く結びついて行くでしょう。結婚されたすべての方が幸せであるために、更に神の導きがあるように、助けがあるようにと心から願います。

 

2023年3月22日(水)更新

 

 

 

 

 

 

 

「主はサムエルに言われた。『彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』」                  サムエル記第一16:7

 書店に行くと、本の帯びやタイトルに目を引かれることがあります。「人は見た目が9割」(竹内一郎/新潮新書)もその一つではないかと思います。帯びには、「理屈はルックスに勝てない・・」とあって興味をそそられます。関心を持ったのは、自分にも当てはまるところがあるからでしょう。購入しなかったのは、他に優先して読みたいものがあったからですが、ものごとを表面的にしか見ない・・・私たちによくあることではないでしょうか。

 冒頭の聖句は、イスラエルの二代目王が立てられるとき、神が預言者サムエルに語ったものです。“彼の・・”とあるのは、王候補として挙げられたのが「エッサイの息子たち」だったため、エッサイの長男を見たサムエルは、彼が背も高く、立派な体格をしていたのでしょう。彼が王になるのではないかと思ったようです。ところが主は、人が見るようには見ないと言います。確かに、いかにも立派そうな人が実はそうではなかった・・なんて話はよくあります。でも、国のリーダーになる人ですから、容姿が悪いよりはいい方が良いし、演説が下手よりは上手い方がいい。交渉が下手よりも上手い方がいいと考えるのが普通ではないでしょうか。確かにこれらは、あるにこしたことはないけれど、どうしても必要かと言われれば、そうでもないのかも知れません。神が重視したのは、心でした。真に誠実な人は、自分の役職に自覚と責任を持ち、話が上手でなくても、誠意は伝わります。王は、最高権力を有するわけですから、心がしっかりしていないと権力を手にした途端、変わってしまうでしょう。力で民衆を抑え込むような国家を神は望んでいませんでした。

 私たちも、ものごとをうわべで評価、判断しがち(場合によってはやむを得ない場合も)ですが、背後にあるもの、根底にあるもの、先に待ち受けているものを見る心を養いたいと思います。そうすれば、かなりの確立で“後悔”を避けられるのではないかと思います。

 

2023年3月14日(火)更新

       

 

「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。」

                          イザヤ書53:3

 痛んだ膝関節を削っていわゆる人工関節を組み込んだ手術を受けて、丸一年経ちました。術後、まるで針の先が膝の裏側に混入したかのような激しい痛みに悩まされました。術後だから仕方ないと時間の経過を待ちました。三ヵ月、半年と時間の経過とともに痛みは少しずつ和らぎ、痛み止め薬の服用も次第に減っていきました。ところが数週間前からどうゆうわけか痛みを感じる時間が長くなり、というか痛くない時間があまりなくなり、薬を飲む回数も増えました。術後一年なのに、こんなに痛いなんて・・・失意と戸惑いの中にいます。

 痛みとは、なかなか人にわかってもらえないものの一つではないかと思います。ぎっくり腰を経験された方は、その辛さが大体わかります。発熱時の倦怠感や不快感も同様でしょう。これらを経験された方は沢山いますから。でも、経験のない痛みは想像するしかありませんが、結構難しいことだと思うのです。膝の人工関節置換術に関しても、術後スポーツを再開する方もいれば、数は少ないそうですが数年で再手術をする方もいます。

 冒頭の聖句は、イエス・キリストを指示してると思われます。イエスは、神の子として奇跡を行う御力があったので、人々から称えられたのですが、一部の人たちから神を冒涜する者としてレッテルを張られます。次第に同調する人も大勢現れ、罪人として処刑(十字架)されてしまいます。冒頭の聖句にあるように“蔑まれ”“のけ者にされ”たわけです。“悲しみの人”については、聖書の欄外注に「あるいは『痛みを知る人』」と説明されています。もちろんこの“痛み”は、肉体的苦痛だけではありません。

 イエスは、およそ人が被るあらゆる苦しみと痛み、病の辛さを知っていました。イエスが全ての病を患っていたわけではありません。神の知恵と心で私たちの内心を見てご自分の痛みとして受け止めてくださいます。痛みの意味と目的を私たちがわからなくても、その痛みを知っている方がそばにいることで慰められます。

 

2023年3月7日(火)更新 

 

 

 

 

「アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ。そして自分の民に加えられた。」創世記25:8

 数年前「老後2000万円問題」が話題になりました。このとき“経済的に厳しい老後”を覚悟した人は少なくないと思います。私もそのなかの一人でした。金銭的なことは、生活の質に関わる問題なので無視はできないでしょう。でも、幸せな晩年に必要なものはそれだけではありません。家族を含めた人間関係は、晩年を豊かにも孤独にもします。

 仕事をリタイヤされた方は、健康であれば、時間を自由に使い楽しむことができます。とても充実したときになるでしょう。でもそれも期間は限られています。次第に、必ず損なっていく健康、それまで出来ていたことが出来なくなっていく機能、脳力の衰え。子どもを育てる側から、介護される側等、家族の中に生じる立場の交代・・・いつか来ると備えていてもこれら全てを受け入れることは容易ではありません。そして最終的には、“自分の死”という重い難題に向き合わなければなりません。これは、哲学的、宗教的思索を必要とします。

 冒頭の聖句は、旧約聖書のアブラハムという人の事ですが、彼は、多くの財産がありましたから経済的には心配のない人でした。神への篤い信仰がある人でしたが彼も、他の人と同じように年老いて次第に弱って最後は息絶えます。でも、冒頭の聖句にあるように“満ち足り”ていました。肉体、臓器の機能は、失われていきましたが、神の約束の中にある・・という事実は何ら変わりませんでした。アブラハムは、そのことに安らぎ、遺していく家族も神が祝福してくださるという確信のなかにいたのです。

 死後はみな同じ・・・ではありません。アブラハムは、神が「自分の民」と呼んでくださるその群れに加えられました。人は、死後どこにいくのか・・・私たちの重大な関心事のはずです。

 

2023年2月28日(火)更新

 

 

 

 

「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」

                   マタイの福音書2652

 “まさか、今の時代に戦争なんて・・・”ロシアによるウクライナ軍事侵攻が報道されたとき、そう思いました。侵攻した理由、学校標的、子ども連行・・・とにかく信じがたいことばかりでした。戦争を何とか止められないのかと考える人、国は多くありましたけれど、一年が経過してしまいました。先日、ロシア国内は、経済制裁等の影響は少なく、市民の生活は、特に都市部は以前とあまり変わらないと報道(写真)されていました。ロシア国内にも戦争反対の意見もあるそうですが民衆の声になる程ではないのでしょう。

 1979年、ソ連によるアフガニスタン侵攻の時、私は社会人でしたが今ほど関心があったわけではありませんでした。ソ連は、当時の反政府組織との内戦に苦慮するアフガン政権を支持するために軍事侵攻したそうです。でもゲリラ戦に苦戦し、10年後に撤退しています。撤退の記事は当時大きく取り上げられていたので記憶には残っていますが、どこか遠い国の話のようでした。今回のウクライナ戦争が長期化しなければよいのですが・・・。

 冒頭の聖句は、主イエスが捕えられた際、弟子の一人、ペテロが剣で相手の耳を切りつけた事件のときのものです。ペテロは、何の罪も犯していないイエスの逮捕が不当なものであることに腹をたて、逮捕させないための実力行使でした。

 剣は、力、権力、暴力の象徴です。善人も悪人もいる社会では、悪を正し正義を行うため、また弱者を守るためにも剣が必要になります。とはいえ、人は罪人ですから、正義は、自分の側にあると信じ込むことによって、剣は簡単に他者を傷つける道具になってしまいます。この恐ろしさを自覚しない人が持つ剣は、危険な道具に過ぎません。

 イエスがペテロに声をかけていなければ、彼は、更に他の人を傷つけたかもしれません。そんなことをすれば、武器を持った役人、群衆が激高したことでしょう。もと漁師のペテロには太刀打ちできません。イエスは、ペテロが傷つけた相手の耳を癒されたと聖書に記されています。一触即発の空気の中で人々が冷静さを取り戻すことができたのは、主イエスのことばと御力(癒しの奇跡)でした。

 事の解決のために剣が必要な場合はあります。けれども安易に剣を持ち出す人は、問題を複雑にし、紛争を長引かせ、癒しがたい傷を残しています。剣は、社会に必要なものではありますが、過度に剣に依存する社会は、歪んでいます。剣を必要としない世界が望ましいですが、それは難しいのが現実です。ですが剣を用いる場合に葛藤し、悩むものでありたいと思います。それが豊かな人間性を保つことに繋がるのではと思うのです。

 

2023年2月21日(火)更新

 

 

 

 

「急に得た財産は減るが、少しずつ集める者は、それを増す。」箴言13:11

 

 寒気が少し緩んだ感じがします。雪との格闘ももう少しの辛抱です。教会の駐車場除雪は、業者にお願いしているのですが、道路の除雪は、市指定業者が行います。早朝(深夜?)の作業ですから見たことはありませんが、路上の雪を両サイドに押しのけているようです。日曜には、教会の駐車場が一杯になりますので(そんなに広くない)目の前の道路の通行に支障がでるのではないかと心配になって、道路の反対側の雪を少し削って教会の融雪槽に入れる作業をしました。他に雪を移動する場所がないから仕方ありません。道路端の雪は、固いので角スコップで少しずつ削らないと運べません。少し削ってはダンプに乗せて後ろ向きにずるずると引っ張って(膝への負担が少ないから)融雪槽に入れました。作業範囲は15,6メートル程でしょうか。とても長~く感じますが「千里の道も一歩から」といわれます。休み休みでも、少しずつでも続けていれば、いつか終わります。一時間ほどできれいに片付きました。

 冒頭の聖句は、作業ではなく、財産に関するものですが、似ているところがあります。作業工程を短くすること自体は、技術や工夫でできる部分がありますが、簡単便利を優先すると耐久性や美観を損なうことがあります。財産を所有すること自体は、私たちの生活に不可欠な側面です。でも、確実に増やしたいなら、安易なもうけ話に耳を傾けず、地道にこつこつ貯めていくことでしょう。“急に得た財産”は、聖書の欄外注に“直訳「空しいものから」”と説明しています。原語は、蒸気や霧といった意味があり、そこから空しいものにつながります。

 スマホ一つで稼げる、時給〇万円・・・楽して儲かる仕事は、ないと思うのですが、たとえあったとしてもその人を幸せにするのかは疑問です。真面目にこつこつ働いて、少しずつ蓄えたとしても殆どの人は、資産家にはなれないでしょう。でも幸福感も他者からの信頼も蓄えることができます。これらは、とても価値のある財産です。

 

2023年2月14日(火)更新

 

 

 

 

「イエスは彼らの思いを知って言われた。『なぜ心の中で悪いことを考えているのか。・・』」                マタイの福音書9:4

 我が家は、ハサミ、ボールペン、カッター等をスチール製の円筒形容器に入れています。ゴチャっとしてあまり見栄えはよくありませんのでちょっと隠れた場所にあります。先日ハサミを使おうとしたらなかったので、妻に「知らない?」と聞いたら「知らない、最近使っていない」とのこと。え!じゃあ私が片付け忘れたってこと?・・そうゆう可能性もあるなぁと少し謙遜な姿勢を見せたものの、妻から「私が片付け忘れたって思っているでしょ・・」とつぶやかれてドキッとしました。内心「以前電子ピアノの上に置いてあったし、洋服のタグを切るのに使ったんじゃないの・・」と実は妻を疑っていたのです。私も最近忘れっぽいので自分の可能性もあるとは思いましたが、恐らく95%位は妻が忘れたのではと思っていたのです。いつになく必死で探す妻・・・私を疑ったのかパンパンに膨らんだ私のペンケースを開けると「あったじゃな~い、ここに!」と鬼の首をとったように得意げにハサミを掲げました。それからの私は平謝りでした。私は、数日前、絵を描いたのですがその画用紙を切るのにハサミを使ってそのまま自分のペンケースに入れてしまったのでした。心の内を口にしなくて、本当に良かったと思いました。

 冒頭の聖句は、からだが麻痺して動けない病人に対してイエスが「あなたの罪は赦された」と言われたとき、その場にいた律法学者たちに向けていわれたものです。彼らが心の中で「この人は神を冒涜している」と言ったからです。

 重い病気の人は、友人らの協力を得てイエスのもとを訪ねました。床に寝かせたまま連れて来たのですから、彼らの思いの強さがわかります。そこにイエスは、信仰を認めて下さったわけです。ところが、律法学者たちにとって、“罪を赦すことができるのは神である”という認識だったためにイエスを冒涜者として非難しました。難病を瞬時に癒すのも、罪の赦しを与えることも神のなさることです。律法学者たちのつぶやきたくなる気持ちは、わからないでもありませんが、彼らは目の前の現実をしっかりと見るべきでした。

 私たちは、こころの中に良いことも悪いことも考えます。良いことは口にしますが、人に知られては困るようなことは隠し人に知られずに済みます。でも神は既に知っておられます。神が知っておられることに恐れを覚えるかもしれませんが、神の懐の深さ、イエスの十字架に示される神の愛を知るなら、恐れはむしろ喜びへと変わっていくでしょう。自分に非はないと思い込むより、善も悪も含めて私なのだと自分を受け入れられる方が幸いだと思います。

 

2023年2月7日(火)更新 

 

 

 

 

 

「それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。」   マルコ5:20

 北国で最も寒い時期になりました。今朝、車に乗ったら車外温度が-22度と表示されました。空気が張り詰めてピンとしている感じです。こんな日常があるからこそ、春の芽吹きが一層楽しみになるのだと思います。あともう少しの辛抱です。

 さて、イエスはガリラヤ湖の近辺で多くの人たちの病、患いを癒されました。噂は広まり、イエスの行くところには人が集まってきました。あるとき、イエスが湖を渡って岸に上がると悪霊につかれた人がイエスを迎えました。イエスは、彼が苦しんでいるのを知って、悪霊にその人から出ていくように命じました。悪霊は、イエスの権威を知っていたので、下手な小細工はせず、ただ豚の群れに移ることを願い出て聞き入れられます。

 本人が「私は悪霊につかれたから解放してください」と願ったのではありません。この人は、悪霊によって人格が破壊され、感情が不安定になっていました。悪霊が彼を束縛していたのです。しかし、その悪霊もイエスの前では、「・・・私を苦しめないでください。」と願い出ずにはいられませんでした。さんざん人を苦しめておいてこの期に及んで何を言うか・・・という感じもしますが、イエスの力と権威の前では、それが精一杯のあがきだったのでしょう。

 悪霊から解放された人は、正気に返りました。自分の人生を取り戻した彼は、イエスのお供に加えてほしいと願い出ますが、イエスは、彼の家、家族のところに帰るように命じます。それで冒頭の聖句につながります。彼の人生のどのくらいの期間を悪霊によって破綻させられたのか、家族と分断されたのか詳細はわかりません。けれども彼は、得体の知れない霊的な何かではなく、イエスによって自分の人生を取り戻すことができたのは、確かなことでした。デカポリス地方とは、ガリラヤ湖南東側の異邦人の多い地域です。人々にとって驚くべき事柄でした。

 自分の人生を生きている実感がない・・そう感じることがあるなら教会にお越しください。神の前で答えを見出すことができるでしょう。神は、私たちの人生に大きな転機を与えて下さいます。

 

2023年1月31日(火)更新

 

 

 

 

「イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。」マルコの福音書3:5

 郵便局の窓口、ホームセンターのレジ、健康診断の待機席・・係の人に怒鳴り散らしているおじさんを見たことがあります。言葉か何か態度が気に障ったようでしたが、誠実なことばで根気強く対応されていた職員の方に感心したことがありました。

 人の目を気にせず怒鳴り散らす人は、珍しいかもしれませんが、何かに腹をたてるようなことは誰にでもあるのではと思います。どんなことに腹を立てるのか、基準は人それぞれだと思いますが、恐らくプライドが傷ついたり、自分が大切なものや人をバカにされたと感じるとき感情が高ぶりそれを治めるのが難しくなるのではないかと思います。

 主イエスが怒った・・のは、意外に感じるかもしれません。でもこれは、イエスが短気だったわけはありません。イエスが怒ったのは、片手の萎えた人をイエスが治すかどうかを注視していた人たちです。本来、病気や障碍が治るのは喜ばしいことですが、当時の宗教感覚では、安息日は、労働を休んで神を称える日となっていましたから回復とはいえ癒しの奇跡は、働きととらえられ安息日にするのはけしからんと批判する人たちがいたのです。イエスは、片手の萎えた人が安息日に神を心から称えることができるように働いて(癒し)くださいました。けれども人が回復して心から神を称えるよりも、ルールに従って安息日を守るかどうかだけに関心を寄せている人たちの自己中心、頑なさをイエスは嘆き悲しみ怒りを覚えたのです。

  善悪の判断は、ときに難しいことがあります。でも”殺すことか、いのちを救うことか・・”問われたら、殆どの人が後者が正しいと答えるでしょう。これは、冒頭の聖句の前にイエスが頑なな人たちに語りかけたものです。病気を癒すことは善なることですが、安息日にするとそれは悪だと考えるようになっていました。本来の意義が薄れ形式的になって残ることは、よくあることかも知れません。でもいのちにかかわるようなことがそれでは困ります。頑なな人たちは、何が本当は重要か気付いていながらも、自分たちの価値観を変えたくなかったのでしょう。それが神の意思なのだと信仰を纏ったことでより頑なになったと言えるでしょう。

 イエスの怒りは、彼らに直接向けられるのではなく、萎えた片手の人を元通りに回復する力として現れています。動かない腕が動くようになったのですから、本人はもとより周囲の人たちは大変な驚きようでした。ところが、イエスを批判しようとしていたあの頑なな人たちは、その場から出ていくと今度は、どうしたらイエスを殺害できるかと相談し始めます。頑なさは、視野を狭めるのみならず喜怒哀楽の感覚をも狭め固定化してしまうのかもしれません。

 硬くなった腕を”伸ばしなさい”とお命じになったイエスは、私たちが素直な心で神の語りかけを聞くことを望んでおられます。神のことばは、私たちがどのような状態であっても健全な状態に回復させる力があるのです。

 

2023年1月24日(火)更新

 

 

 

 

 

「彼はぶどう酒を飲んで酔い、自分の天幕の中で裸になった。」

                       創世記9:21

 コロナ禍も丸三年、少しずつ経済活動が活発になってきました。アルコールを含む外食の機会が増えたことは、喜ばしいことでしょう。でもマスクを外しての会話は、感染リスクが格段に上がります。アルコールは、ストレス発散、血行よくする、食欲増進などの効果があるそうですが、気が大きくなるのか、軽くなるのか・・普段はある警戒心を引き下げる効果もあるような気がします。つい飲みすぎて・・後悔することも少なくありません。私の若いときの話ですが、クリスチャンになって数年後、あることをきっかけに私は飲酒を止めました。今は、特別な日に(結婚記念日)に妻とワインで乾杯する程度です。

 冒頭の聖句の”彼”とは、大洪水の中、箱舟で守られ、新しくされた地で新しい歩みを始めたノアのことです。彼は、農夫となってぶどう畑を作りました。大洪水の後、一から始めた事業ですから収穫した実で作るぶどう酒は格別だったことでしょう。ところがちょっと過ぎたようです。酔って裸になったというのです。ノアは、”彼の時代の中にあって全き人であった。神とともに歩んだ。”と神に認められた人です。長さ100メートルを超える巨大な箱舟を息子たちと造った信念と信仰の人であることに間違いはありません。一方でこんな失態をさらけ出してしまう、私たちとあまり変わらない、どこかのおじさんのようです。ただ失態とはいえ、誰かを傷つけるような類のものではありませんでした。このことをきっかけに、三人の息子たちの父への態度が明らかになるのですが、その態度に聖書は注目しています。二人の息子は、父の裸を見ないようにして、その裸を上着で覆うように行動しますが、一人は、面白がっただけのようでした。それでその息子は、他の兄弟のしもべとなるように・・と後の状態を霊的預言されてしまいます。

 泥酔したノアが悪いと言えば悪いのですが、人は誰でも欠けがあり弱い部分があります。相手に弱い所を見つけたら、それを嘲笑し攻撃することができますが、その弱さを受け止め、自分の持てるものでその部分を補うように行動することもできます。それは、その人の人間性にかかわる選択といえるでしょう。

 ぶどう酒は、大地の恵みであり、人の生活を豊かにするものでした。でも私たちは、扱い方を間違えて本来、良きものを悪くしてしまうことがよくあります。自分の分をわきまえないで過剰に求める傾向があることの自覚が必要です。アルコールだけでなく、裸(性)についても言えることです。本来悪いものではありませんが、偏って歪んだ情報が溢れています。無自覚に関わると本来大切に扱わなければならない性が歪んだ興味本位の対象になったり、暴力的にさえなって、本来の祝福とは離れてしまうでしょう。

 ぶどう酒ができるには、時間と手間がかかります。飲むときは、自分の体をいたわる様に大切に時間をかけてゆっくり頂いたら良いでしょう。聖書は、アルコールを禁じてはいませんが、慎重に扱うべきものとしています。ぶどう酒は飲むもので、飲まれてはいけません。

2023年1月17日(火)更新

 

 

 

 

 

 

「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」創世記3:5

 年末年始の休暇があったので海外ドラマを見ました。犯罪サスペンス、アクションというジャンルになるのでしょうか、内容を知らずにちょっと覗くつもりで見始めたのですが、次の展開が気になって結局何本も見てしまいました。まだ完結していないので、昨日も見ました。犯罪組織との攻防、銃撃戦等も多くあり、好みが分かれるかも知れません。力の支配、裏切り、策略、表と裏、愛と憎しみ・・大分誇張されてはいますが罪の現実とともにもう一つの人間の現実(愛と真実を求める)を描いているようにも思います。

 冒頭の聖句は、最初の人アダムが罪を犯してエデンの園を追放される経緯を記した創世記の一節です。悪魔は蛇を通して妻(エバ)を巧みに誘惑し、神に対する信頼を揺るがせます。食べてはならないと警告を受けていた木の実でしたが、蛇と対話するうちに、警戒心が薄れたのか次第に心が傾いてしまったようです。エバが実際に禁断の実を手にする直前に語られたのが冒頭の聖句でした。

 「目が開かれて・・神のようになって善悪を知る者となる・・・」今以上にすばらしい世界が広がると言われたら、興味をそそられない人はいないでしょう。アダムとエバにとって神は、何をされるかわからない恐ろしい支配者ではありませんでした。

むしろその逆で、自由と喜びを惜しみなく与えてくれる守護者でした。にも関わらず、エバは、自分を超えた存在である神は、自分の知らないことを知っている、もし私もそのようになれたら・・という漠然とした憧れを抱いたのかも知れません。どんなに華やかで楽しそうに見える扉も、実際には、罪の入り口でした。彼女は、禁断の実を手に取って食し、夫にも与えて二人は・・・神の目を避けるようになってしまいます。

 目が開かれる・・・ことは、現在良い意味に使われていることばです。それまで気付かなかったことを、あることをきっかけに気づいたりすることがあります。それは、多くの場合良い方向に向かうことを意味します。アダムとエバは、悪に目を開く必要のない環境にいましたから、善悪を知る必要はありませんでした。

 罪というと「〇〇していない」と自分には関係ないと思う方がいると思います。 確かに罪とは、法を犯した場合に適用されますので、その意味では関係ない人がいると思います。けれども聖書で罪という場合、聖なる神の前で汚れある人間。義なる神に対して不義なる人間という対比によって定義されています。神のことばを軽んじ、神に背を向けるように生きる私たちの姿そのものが私たちに罪があることを証明しているといえるでしょう。罪は、神との分断をはじめ、その責任転嫁、自己中心的な性質は、大切な人との関係の中にも悪影響を及ぼし、人間の尊厳の喪失、自分を神とする宗教の興隆など至る所にその影響を見ることができます。人間の本質に関わるものですから、善良な人間でさえ、否、善良な人間ほどその存在(罪)を認めることは容易ではありません。神が人間を善いものとして造られたがゆえに保持する善と、罪人であるがゆえにぬぐえない悪の性質、この両面をもっているのが私たちのありのままの姿といえましょう。

 伝道者パウロは、宗教に熱心ないわゆる義人でしたが、神のみちびきを受けて目から鱗がおちて、文字通り自分の罪深さに目が開かれた人でした。キリストの十字架を批判していた彼は、その後、キリストの救いを熱心に語る人に変えられます。

 人の罪は、ごまかしようのない私たちの本質ですが、それを赦して下さる神がいます。キリストの十字架は、私たちの存在を基から見直すように導いてくださいます。土台が据われば、上に築くのは比較的容易になります。世の中の善悪を知って正そうとするなら、自分の中にある善、悪を知る必要があります。健全な自尊心、謙虚な心、他者を顧みる心・・・目が開かれた人は、変えられていくことでしょう。

2023年1月10日(火)更新

 

   

 

 

 

 

「どうか喜ばせてください。私たちが 苦しめられた日々とわざわいにあった年月に応じて。」                     詩篇90:15

 一年を振り返る季節になりました。丸三年になる新型コロナウィルスへの対応、困難が世界規模で広がっている中でのロシアによるウクライナ侵攻。日本の首相が銃弾に倒れる事件を機に表に出た宗教二世の苦しみ・・・。いつもながら、特になにもない穏やかな一年だったという年の瀬は、いままでになかったような気がします。それでも、日本の隣国ロシアが戦争をしかけ、今なお継続していることは驚きです。信じられない、信じたくないような気持ちになります。

 コロナや戦争等の影響もあるそうですが、エネルギーや食料等の高騰は、今や世界の人たちを苦しめる要因になっています。

 感染の危険があるからと孤独で荼毘にふされ、愛する人の最後のお別れもできない悲しさ。理不尽な爆撃に耳をふさぎ、暖をとれない寒い部屋でわずかな食糧でいのちをつなぐ苦しさ。正常な判断ができなくなるほど人権や自由を制限され、それが正しいと刷り込まれる霊的暴力・・・私たちは、どれだけ苦しまなければならないのでしょう。

 冒頭の聖句は、”神の人モーセの祈り”と副題がついている旧約聖書詩篇の一節です。そこには、人生は瞬く間に過ぎ去り、労苦とわざわいが多いと記しています。でも、モーセは、苦しいことは多かったけれど神がその労苦にふさわしく報いてい下さることを信じていました。”どうか喜ばせてください”は、神がすべての真相をご存じであるから、苦しいことにも真摯に向き合い、最善を求めて生きた人を神がそのままで終わらせるはずはない。神のうちにすべての喜びと報いがあるのだとう確信から出たものでしょう。

 苦しみと悲しみ、憂い等には、時間による区切りがありません。新年を迎えたとろこで状況は何も変わらないかもしれません。けれども、私たちの人生で起こる全ての事を詳細に知っておられる神がおられます。神は、私たちの生き方に応じて報いを与えることがおできになります。苦しめられても、慰められ、喜びと楽しみを与えられる時を期待して待つことができます。神が幼子イエスを私たちに与えてくださった出来事は、時が満ちれば神は、私たちに恵みと喜びを与えて下さるのだという一つのしるしになりました。一方で神は、人を苦しめる側にも報いを用意されます。後者にならないようにしたいものです。

2022年12月27日(火)更新 

※次回の更新は、1月10日になります。

 

 

 

 

 




「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。」Ⅰテサロニケ5:14

 いろいろな考えの人がいるということは、人が集れば何となく感じます。おしゃれを楽しむ人がいれば、服装にはこだわらない人もいます。ちなみに私は、価格、サイズ、着心地の優先順位で決めることが殆どなので、後者にあたると思います。たまに妻から「こういうのを着たら・・」とやんわり指摘されることもあります。

 人の話ばかりする人もいれば、自分の話ばかりする人もいますし、外出するのが好きな人がいれば、家にいるのが好きな人もいます。

 教会には、大人から子供までいろいろな方が集います。年齢も職業も、生い立ちも異なる個性豊かな人たちが、一緒に神を礼拝しているのですから、確かに人の集まりではありますが、ある意味小さな神の国といえるかもしれません。そんな集まりでも、人は神にゆるされた罪人ですから様々な弱さがあるのも事実です。

 冒頭の聖句は、ある地方の教会に宛てられた手紙の中の一節ですが、互いに愛し合い、互いに寛容であることを前提にしながらも、具体的なことが記されています。

小心な者”を励ましたり、”弱い者”の世話をすることは、まさに教会らしい勧めといえるでしょう。小心は、臆病でたえずびくびくしてるようなあまりポジティブなイメージはありませんが、用心深くて慎重な人も含まれるので必ずしも悪いことではありません。肉体的、精神的に弱い人とともに、温かいケアが必要とされます。そのような人たちが安心していられるのが本来の教会の姿でしょう。

 一方で、親切丁寧に教えなければならないのが”怠惰な人”でした。以前の訳では”気ままな者”と訳されていました。勝手気ままで、怠け者・・イメージ悪いですが、いろいろな人の中に、そのような人がいたのは事実でした。ですが、教会は、相応しくないと排除するのではなく、諭すように勧めたのでした。これは意外と骨の折れる仕事だと思います。そもそも自分勝手な人なので、人の忠告を聞かないところがあるのです。でも主の弟子たちがそうであったように(イエス・キリストから忍耐をもって教え諭され、整えられて彼らは、弟子として生きるようになった)、私たちもそうされる必要があるのでしょう。

 恐らく私たちのまわりには、積極的にかかわりたくないような人が少なからずいると思います。誰もが優れた指導者、教育者ではありません。けれども、そのような人を受け入れようと、神の勧めに耳を傾けることが私たちにできる始めの一歩ではないかと思います。

 関りが難しそうな人を諭すことが本当にできるのか・・・私には自信がありません。その意味で、私も小心者で、弱い者であることを認めざるを得ません。神の励ましや助けを必要としています。

2021年11月9日(火)更新

 

 

 

 

 






テスト


テスト

テスト

これはテストです


日本福音キリスト教会連合

滝川福音キリスト教会

〒073-0012 滝川市黄金町東2丁目4-29

☎0125-24-2953

mail:takikawafukuin@outlook.jp